イザベル・ユペールが演じる"聖母"のような母親は、植物人間状態と化した娘ローザ(カルロッタ・チマドール)とエリアーナを重ね合わし、"奇跡"が起きることを信じて、日々、祈りを捧げている。大女優としてキャリアを築いた母親に憧れを抱く息子のフェデリコ(ブレンノ・プラシド)は、自身も役者になることを夢見ている。そんな息子に対して、ローザの奇跡の復活劇を演出すべく"聖母"の大役を務めるのに一生懸命な母親は、あまりにも冷たく振る舞うだろう。戯曲の一場面を熱演する息子に差し向けられた"聖母"を演じるイザベル・ユペールの視線は、寒気を感じさせるほどの冷淡さと無関心で、息子の心を深く傷つけるに違いない。本作のユペールは、その冷淡な視線の強度によって、忘れ難い存在感を発揮している。
教会の椅子に横たわるロッサの寝姿から始まる本作は、タイトル通り、"眠れる美女たち"ばかりが登場する映画である。その中には、一見眠っているわけではない"美女"も実は"眠っている=目覚めていない"精神状態にあるとして描かれる。ロッサは天使のようなパリッドの献身によって精神の深い眠りから目を覚ます、文字通りの"眠れる美女"だが、マリアは起きて活動しているにも関わらず、妄信によって意識が"覚醒していない=眠っている"状態であるから、起きながらにして覚醒していない"眠れる美女"として描かれる。その眠りを解くのは、"冷や水の一撃"を切っ掛けに得たロベルトへの恋心であり、父親の愛であるだろう。そして、文字通りの"眠れる美女"、植物人間状態のローザの復活劇を信仰する"聖母"も、起きてはいるが、意識が暗黒時代を彷徨っている"眠れる美女"として描かれている。しかも、"聖母"の彼女には、愛による救済が訪れることはない。
死んでいるものを蘇らせようとし、生きているものの生気を殺ごうとする、あるいは、まだ生きているものが死のうとすることの倒錯をヴェロッキオは見逃そうとはしない。21世紀に入ってからも、『母の微笑』(02)、『夜よ、こんにちは』(03)、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(09)、そして本作と、傑作を連発するイタリアの巨匠マルコ・ベロッキオが、3年前の私たちの
インタヴューで語ってくれた「どの映画も、淡々と冷めた気持ちで撮ったものなどひとつもなく、毎回のめり込むようにして撮っている」という言葉が、決定的瞬間の現前に激情を込めるヴェロッキオ監督の演出を目にする度に、脳裏に甦ってくる。
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