『君の名前で僕を呼んで』

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21世紀の映画における新しい潮流、<A KIND REVOLUTION>

上原輝樹

映画は、ジョン・アダムズの煌めくような美しい旋律が軽やかに踊るピアノ曲「Hallelujah Juction」を背景に、ルカ・グァダニーノが好んで採用している、主な出演者とスタッフの名前が大きく映し出される往年のハリウッド・スタイルのオープニング・タイトルに次いで、ベルナルド・ベルトルッチ作品の舞台としても知られるイタリア北西部ロンバルディア地方の瀟洒な邸宅に、緑のフィアットを長時間運転して到着したオリヴァー(アーミー・ハマー)をパールマン家の面々が暖かく迎え入れる場面から始まる。


父親のパールマン(マイケル・スタールバーグ)は、ギリシア=ローマ美術史を専門とする大学教授、この邸宅を相続した母親アネラ(アミラ・カサール)は翻訳家、主人公のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、17歳にして、英語、フランス語、イタリア語を流暢に話す、反知性主義が蔓延る現代社会において、映画の中でさえ稀となった知的環境に恵まれた一家は、夏になると豊かな自然に囲まれたこの地で8週間を過ごし、長年の付き合いで気心の知れた友人達が歓談に訪れる。そして、毎年決まって、若い研究者が1名、父の助手として招かれる。そうして今年招かれたのが、24歳の大学院生オリヴァーだった。


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エリオは、この夏の日々を通じて、ピアノやギターでクラシック音楽の編曲に興じ、読書に耽る、時には近所に住むフランス人のマルシア(エステール・ガレル)と戯れたりして時間を過ごしているが、自らの知性と若い身体を持て余しているように見える。劇中の台詞にあるように、誰よりも多くの知識があるようで、まだ「肝心なことは何も知らない」のだ。そこへ、アメリカからやってきた"ムービー・スター"、オリヴァーが、エリオの心を掻き乱し始める。アンドレ・アシマンの原作小説では、パールマン家の邸宅は海岸から程近い距離にあったが、映画では、現在グァダニーノ監督が住んでいるのだという、緑が豊かに繁茂する内陸地に設定が変更されており、世間一般から隔たった空間の中で、特別な人間関係が醸成されていく、その空間の特殊性を際立たせている。エリオの青春の一夏は、神話的とも言うべきこの鮮やかな緑の中にある、ヴィスコンティの孫(ヴィオランテ・ヴィスコンティ)が室内装飾を手掛けたのだという瀟洒な邸宅の中で、熟れた果実のような匂香をスクリーンに放っていくだろう。


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世間から隔絶された空間の中で、エリオがオリヴァーを渇望する気持ちは、思春期特有の一途さで高まっていく。エリオよりも遥かに体格が良く、物事に頓着せず、ドライかつ社交的に振る舞い、人を惹き付ける術を心得ているオリヴァーに対するエリオの思いは複雑である。まず、一人の人間としてのその成熟した物腰と教養、知性、そして、同じユダヤ人としての堂々とした振る舞いに対する驚きと憧れ、そうしたすべてが綯い交ぜになり、性的魅力となってエリオの心と体を支配する。原作小説ではより詳らかに描写されているが、オリヴァーが"ダビデの星"のネックレスをあからさまに身につけている様が、エリオに大きな感慨を与えている点は、思春期において、まだ充分に確立されていないアイデンティティの揺らぎを考える上で興味深い。


エリオがオリヴァーに惹かれているのは、単に外見や声や匂い、といった性的魅力に直結する身体的、動物的特徴だけではなく、それらと渾然一体となった、彼の知性であり、ユダヤ人のアイデンティティとして同一視することのできる、二人の同質性である。同性であるエリオとオリヴァーは、民族的、社会的アイデンティティを共有し、知識を共有し、ついには(君の名前で僕を呼んで)名前を共有し、身体を交えて、文字通り一つになる。だから、この作品を、惹かれる者同士の強烈な体験、普遍的な愛の体験を描いた作品であると言うことは出来るが、特権的な同性同士の<ホモセクシュアル>な愛の体験の物語であることを、婉曲表現を用いて一般化する必要はない。なぜなら、この作品には、エリオという17歳の少年の性的欲望が何よりも濃密に描写されており、それはとりわけ、男性同士の体験を描いているものだからだ。だからこそ、終盤の父親の台詞がひときわ感動的に響くのは言うまでもないことだろう。


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アンドレ・アシマンの原作小説では、エリオのオリヴァーの"足"に対する視線が頻繁に書かれているが、映画では、その視線は、観客のエリオの"足"に対する視線へと転移され、その結果、アピチャッポン・ウィラーセタクン組のキャメラマン、サヨムブー・ムックティプロームのキャメラは、オリバーではなく、エリオの"足"を頻繁に捉えることになる。どの時点でそのような脚色が施されたのかはわからないが、アーミー・ハマーの鈍重な足を捉えるよりも、ティモシー・シャラメの中性的な顔つきとのギャップを感じさせる、意外にも男らしい足を捉えた方が、審美的にも正解だという判断が成されたのだろうか。そもそも、素晴らしい表情の演技で幾つもの忘れ難いシーンを創り出してくれたアーミー・ハマーだが、あのリズム感のないダンスを見てしまっては、彼のフットワークに何かを期待するのは難しいと誰もが直観するに違いない。この作品に漂う、そうした"足"に対するフェティッシュな視線は、一家にゲストとして招かれ、政治的話題から映画の話まで、延々と喋り倒すイタリア人カップルがブニュエルの名に言及した時、ほぼ確信犯めいた色合いを帯びて、性的欲望を表現する映画的モチーフのひとつとして浮かび上がってくる。


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元来プルーストの研究家であるという作者ならではの執拗さからか、アンドレ・アシマンの原作小説は、エリオの肥大した自意識と性的欲望が微に入り細に入り独白されており、些か胃がもたれないこともないのだが、老境にあるジェームズ・アイヴォリー卿が仕上げた脚色は、原作のエッセンスを活かつつ、具体的な細かい描写を時系列を組み替えながら脚本に血肉化しており、冒頭から登場するジョン・アダムズのピアノ曲さながらの軽やかさを獲得していて見事だ。もっとも、ルカ・グァダニーノがジョン・アダムズの曲を使ったのはこれが初めてではなく、『ミラノ、愛に生きる』(09)ではアダムズにオリジナル・スコアを依頼しているほどだが、そのスコアは、『ミラノ、愛に生きる』という作品同様、技巧的に感情を操作しようとする側面が強く、フランソワ・オゾンやオリヴィエ・アサイヤスとの作品の印象の強い、ヨリック・ル・ソーの"よく動くキャメラ"による、ヒッチコック『めまい』(58)の渦巻きヘア・スタイルへのオマージュシーンが見る者を楽しませてはくれるものの、如何にも"様々な意匠"ばかりが目立って感情が生起してこない。


本作ではむしろ、ジョン・アダムズの2017年に発表された既成曲をサラリと冒頭に持ってくることで、この作品に必要な"明るさ""軽さ"を齎すことに成功している。ルカ・グァダニーノとヨリック・ル・ソーとのコンビは、続く『胸騒ぎのシチリア』(15)で恐らくはそれなりの到達点を見ている。それは例えば、ティルダ・スウィントンが机の上のグラスを素足の爪先で蹴って割ってしまう、ロックンロールなショットにその成果が刻印されているはずなのだが、今回、グァダニーノが組んだサヨムブー・ムックティプロームは、そうした派手なショットはひとつとして撮っておらず、飽くまでも"ナチュラルさ"の偽装に徹することで、屋外においては緑と水に注がれた陽光の煌めきと、室内においては欲望がムクムクと湧き起こる夕方の薄暗がりの中に、エリオの欲望を生々しく、官能的に生起することに成功している。


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だが、この映画を格別なものにしているのは、思春期におけるひとりの男性の欲望を描いた、その赤裸々さによるものだけではない。息子の一夏の経験を、"思春期特有の過ち"として忘れさせようとするのではなく、そこには人生における"真実の瞬間"が存在していること、かつて自分にもそのような機会が訪れたが、その機会を生かせなかった、それは誰もが経験出来ることではなく、君は特別な体験をしたのだと語る、エリオの父マイケル・スタールバーグがその演技に滲ませる、むしろ母性的とも言うべき"優しさ"、そして、全てを知りながら、エリオの羞恥心を理解して、素知らぬ振りを決め込む母親アミラ・カサールのきっぷの良さ、一生の友達でいたいと抱擁を交わすエステール・ガレルが示す友愛の情、そうした全てが"革命的"なのだ。それは、暴力によってではなく、意識の変革によって変わることを訴える、昨年発表されたポール・ウエラーの傑作アルバム、"A Kind Revolution"に倣って、"優しさ革命"とでも形容すべき、21世紀の映画における新しい潮流を示している。それは、エリオの周囲の者が紡いだ言葉と振る舞い、その善良さが顕然せしめた奇跡であり、まさに現代に生きる私たちが今、最も必要としているものだ。


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Comment(6)

Posted by 匿名 | 2020.08.18

こういう言い方が正しいかわかりませんが、この方の解説が一番すんなり入ってきました。隅々まで丁寧に語られていて、それを読むことでまたこの映画を楽しむことができたように思います。ぜひまた別の映画の解説も拝見したいです。

Posted by アネッサ | 2020.06.23

先ほど無記名で投稿してしまました。申し訳ありません。映画祭も主催していらっしゃるのですね。ツィッターのフォローしました。もしトークショーなどやられる時があれば、是非お知らせくださいませ。

Posted by 匿名 | 2020.06.23

上原輝樹さま

ご返事いただけるなんて光栄です。しかも筆者のお名前がちゃんと書いてあったのにかかわらず、読んで感動のあまり、すぐコメントを寄せてしまい、恐縮しております。
「ユリイカ」にも、私の大好きな監督やアーティストについて書いていらっしゃるのですね。すぐチェックします。

私は「君僕」を酔っ払ってしまうぐらい好きになってしまい、原作も英語版で再挑戦しています、本当はジェームス・アイボリーの脚本を読みたいのですが、入手できず、日本語訳と両手で読んでいます。おっしゃる通り始まり部分のエリオの心理描写が、もうくどいくらいで読みにくく、最初は後半から読みました。小説はローマの場面がとても好きです。長くなりまして申し訳ありません。

Posted by 上原輝樹 | 2020.06.19

アネッサさま、レビューを書いた上原輝樹と申します。素晴らしいお言葉をありがとうございます。こうしてコメントを残して頂けますと、大いに励みになります。これを機会にお見知りおき頂けると嬉しいです。私は主にこのサイトで書いていますが、雑誌「ユリイカ」のルー・リード特集、デヴィッド・ボウイ特集、ジム・ジャームッシュ特集、スパイク・リー特集などにも寄稿していますので、お手に取る機会がありましたらご一読頂ければ幸甚です。

Posted by アネッサ | 2020.06.17

いろんな解説がこの映画についてかかれていますが、
こんなに的確で、素晴らしい言語を駆使した解説は初めてです。映画の美しさと本質が伝わってきます。かかれた方を知りたいです。

Posted by midoris | 2018.06.04

Call me by your name に心酔中です。
長きにわたる映画体験の中、「ヴェニスに死す」「家族の肖像」がツートップで、他の追随を許さぬまま、人生の果てまでいくのだろうと思い込んでいたら、この映画に出会うことができました。
繰り返し観て、さまざまな映画評・紹介も読み続けておりますが、こちら、上原輝樹氏の言葉が一番の共感しましたので、コメントさせていただきます。
正解というものはありませんが、安易に使われがちな「せつない」という形容詞がミスマッチなのはもとより、どうも、何を読んでもしっくりきていませんでした。
どうして、ここまで私が映画に溶け込んで、泣き、満たされ、心が融解してしまったのか?謎のままで持て余していた気持ちを、上原氏がほどいて下さったように思います。
感情移入とは違う、これは「奇跡に立ち会えた者の心の震え」なのかもしれません。
深夜、バルコニーから寝室へと向かうエリオ、続くオリバーの昏い画面は、冥府へ、あるいは冥府から歩む神話の世界のようで、畏れるほどの美しさが現前していて、観るたびに苦しくなってもいました。
腑に落ちた感じです。


『君の名前で僕を呼んで』
英題:CALL ME BY YOUR NAME

4月27日(金)TOHOシネマズシャンテ、新宿シネマカリテ、Bunkamuraル・シネマ他全国ロードショー
 
監督・プロデューサー:ルカ・グァダニーノ
脚色・プロデューサー:ジェームズ・アイヴォリー
原作:アドレ・アシマン
プロデューサー:ピーター・スピアーズ、ハワード・ローゼンマン
撮影監督:サヨムプー・ムックディプローム
編集:ウォルター・ファサーノ
プロダクション・デザイン:サミュエル・デオール
衣装デザイン:ジュリーア・ピエルサンティ
挿入歌:スフィアン・スティーヴンス
美術監督:ロベルタ・フェデリコ
セット・デコレーター:ヴィオランテ・ヴィスコンティ
出演:ティモリー・シャラメ、アーミー・ハマー、マイケル・スタールバーグ、アミラ・カサール、ヴィクトワール・デュボワ、エステール・ガレル

© Frenesy, La Cinefacture

2017年/イタリア、フランス・ブラジル、アメリカ/132分/カラー
配給:ファントム・フィルム

『君の名前で僕を呼んで』
オフィシャルサイト
http://cmbyn-movie.jp
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