『空気人形』

鍛冶紀子
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これまでの是枝作品にはない"動く"キャメラワークで、うら寂しい東京を瑞々しく切り取ってみせたのは、ウォン・カーウァイ(王家衛)の『花様年華』(00)や、トライ・アン・ユンの『夏至』(00)など、美しい映像で世界中の観客を魅了してきたカメラマン、リー・ピンビン。そして、彼女なくして本作は成り立たたなかったろうとすら思わせるのが、主役の空気人形を見事に演じたペ・ドゥナだ。その十分に人形味を帯びた愛らしさは特筆すべきものがある。リー・ピンビンは台湾出身、ペ・ドゥナは韓国出身。本作を日本映画とカテゴライズするにはいささか窮屈な感すらある。

これまでの是枝作品はいずれも日本的視点の印象が強かったが、今回の空気人形にいたっては舞台こそ東京であるものの、作品全体に漂う空虚感は、世界中あらゆる都市で地縁なく生きるあらゆる人間に通ずるものであろうと思う。例えばそれは、近年発展めざましい都市・北京の郊外を舞台にしたジャ・ジャンクーの『世界』(04)でも描かれていたし、ダルデンヌ兄弟がよく舞台とする出稼ぎ労働者の多いベルギー近郊の都市でもその空虚感は感じられる。そういう意味でも、本作のスタッフや出演者に国際的な顔ぶれが並んだことは必然であったのかもしれない。

淡くなめらかな映像で映し出される都市生活者たちは、居場所を求めながらどこにもたどり着けず、ふわふわ浮遊する綿毛のようだ。人間は本来大地から離れては生きていけないと言う人がいる。人間は本来ひとりでは生きていけないと言う人がいる。どちらの意味においても、都市生活者は限りなく「生きにくい」状況にいると言えるだろう。

物語は都市でよく見る光景から始まる。仕事帰りにコンビニエンスストアに立ち寄る男。日用品を買い、家路につく。どうやら男には同居人がいるらしく、仕事の愚痴を言いながら夕食をとっている。しかし、観客はその相手を見ることができない。やがて同居人の後ろ姿が映り、そこに小さな違和感が生じる。その違和感は、カメラの位置が男の背後に回ったとき驚きに変わり、そしてその驚きは、男と同居人の正体であった空気人形とのやりとりを追うにつれ、徐々にいたたまれなさが入り交じった複雑な気持ちへと変化していくだろう・・・。

本作の主人公はまぎれもなもなく空気人形なのだが、観るものにとって板尾創路演じる男・秀雄の存在は、それをしのぐほどに強い印象を残す。そして多くの人が、否定したい気持ちとは裏腹に、彼をどこかで理解できると感じるだろう。人間関係が希薄になり、いくらでも他者との交流を避けることが可能な現代社会において、秀雄の存在は決して珍しくはないはずだ。本作ではそれが"空気人形を愛する男"として表されているが、言い換えるとそれは生きづらさを抱える孤独な人間ということなのだから。今や生きづらさや孤独を抱え、他者との関わり方に戸惑う人間は、老若男女問わず数多くいることに間違いはない。

秀雄の空気人形は、ある朝「心」を持つ。初めて世界を認識し、初めて町を歩く。初めて恋をして、初めて嘘をつく。しかし、人間として振舞えるのは秀雄のいない日中だけで、夜には性欲処理の代用品としての人形に徹しなくてはならない。「心」を持ってしまったが故の痛み、苦しみ。「持ってはいけない『心』を持ってしまいました」空気人形はつぶやく。

ある日、空気人形は恋する青年の前で手首をクギにひっかけてしまい、体から激しく空気が抜ける事態に見舞われる。青年は彼女に空気穴の所在を問いただし、必死に息を吹き込む。好きな人の息で満たされた空気人形は、それまで感じていた欠如感が消えていくことに気づき、自ら空気入れのポンプをゴミに出し、喜びをもって「老いていくこと」=「彼の息で生きていくこと」を選ぶ。息を吹き込むことで命を感じたのは空気人形だけではなく、青年もまたある種の高揚を感じるのだが、結果的にはそれが悲劇の源となる。果たして彼が感じた高揚は、欠如を満たすという意味でのそれだったのか。倒錯としてのそれだったのか。テープで止めた穴から、そっと彼の息を吸い込む空気人形を見ていると、前者であったことを願わずにはいられない。

透明な影しか持つことのできない「空っぽ」な空気人形と、血肉を持つものの「空虚感」に苛まれる人間。本作で描かれる人形と人間の対比は、時に重なり、時に互いが入れ代わりながら、人間とは何か、生きるとは何かという根源的な問いを浮かび上がらせている。


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Comment(5)

Posted by PineWood | 2016.06.10

亡きテレサ・テンの想い出のメロデイから採られた映画(海よりもまだ深く)は是枝裕和監督の最新作…。ここでも中年の駄目男の虚無感が漂ってはいるが、離婚状態の妻子とのホームドラマを通して人生とは何か、人間とは何か…という主題を私小説か純文学のように描き出した。小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督作品みたいに周到に描かれた日常から炙り出される世界は、諦念と幸福と夢なのかも知れない…。探偵劇を演じるシーン等は香港や台湾映画みたいでも有り、この(空気 人形)の無国籍或いはコスモポリタンなスタイルとも何処かで通じ合っている。

Posted by PineWood | 2016.04.08

岩井俊二監督の最新作の(リップヴァインウインクルの花嫁)の黒木華のお掃除メイドの姿とこの(空気人形)のペ・ドウナのイメージが重なった…。地に脚が着かない不安感や夢見心地の浮遊感覚がそんな印象を残すわけだが。コミック原作のこの空気人形の意識と岩井の(花とアリス)のアニメーションで自分探しの旅に出る少女たちがクロッシングする。苛めや虚偽の夢が破れて現実が赤裸々にされる時に、今ここにある刹那を幸福だと噛み締めるというドールたちの姿がー。

Posted by PineWood | 2015.11.29

先日、早稲田松竹で是枝裕和監督の(歩いても歩いても)と(海猫街diary)の上映があった。コミック原作の映画化という点で是枝監督の最新作の後者は本編ににているのかも知れない…。ただ、完結した空気人形と連載中の海街diaryでは描き方が違うのは当然か。本編はペ・ドウナという韓流スター或は国際女優を迎えて撮影もそうだが、コスモポリタン!(歩いても歩いても)にあったような死者の不在感はアラン・レネ、アントニオーニ監督にもあったし、普遍的なものなのだろう。紋白蝶が黄色い蝶々になって甦るあたりのスピリチュアルなシーンはアジア風の輪廻・無情なセンスとして小津安二郎作品を想起させるものではあるがー。 本編でもラストシーンの花弁の舞い上がるシーンは。

Posted by PineWood | 2015.10.19

韓国のショートフィルム(ドルフィンロイド)はある男が自宅にアンドロイドのメイドを発注し、組み立てたところ可愛いドルフィンちゃんが、マニュアル通りに(サランヘヨ!)と言う。待ちに待った憧れの女性の出現に男の選択した行動は如何?意外な急展開は、唐突に!数分間の物語は長篇映画の一部或は、始まりに過ぎないと見るかも知れないが、ただそれだけに奥深い余韻を残す。ブレッソン監督タッチとも言える。是枝監督の長篇映画(空気人形)の持つ流れるような揺ったりとした愛の顛末と対照的と言って良いかも知れない…。掌編小説のような濃密な宇宙をショートフィルムが持つ事を感じさせられた。

Posted by PineWood | 2015.05.27

プラトニック・ラブの本質が本来一つであった人間男女の切り離された双方からの愛の回復だとしたら、その代償を空気人形というダッチワイフに求めていくプロセスで奇蹟が起こっても何も不思議ではない。小津安二郎監督の名作(東京物語)は、上京支度中の老夫婦の空気枕捜しから始まるが、死んで空に帰っていく人間の宿業のようなものを暗示していた。是枝監督の映画(空気人形)の持つ空虚感と命を孕んだ空気人形が自ら都会のゴミに帰還する高揚感があった。また、見てみたい映画の一本である。

『空気人形』

9月26日(土)、シネマライズ、新宿バルト9ほか 全国順次ロードショー

監督/脚本/編集:是枝裕和
原作:業田良家「ゴーダ哲学堂 空気人形」
企画:安田匡裕
プロデューサー:浦谷年良、是枝裕和
撮影監督:リー・ピンビン
美術監督:種田陽平
美術:金子宙生
照明:尾下栄治
録音:弦巻裕
衣装デザイン:伊藤佐智子
ヘアメイクデザイン:勇見勝彦
造形・特殊メイク:原口智生
人形デザイン・原型:寒河江弘
装飾:西尾共未
音楽:World's end girlfriend
出演:ペ・ドゥナ、ARATA、板尾創路、高橋昌也、余貴美子、岩松了、星野真里、丸山智己、奈良木未羽、柄本佑、寺島進、オダギリジョー、富司純子

2009年/日本/116分/カラー/ビスタサイズ/ドルビーデジタル
配給:アスミック・エース

写真:瀧本幹也
© 2009業田良家/小学館/『空気人形』製作委員会

『空気人形』
オフィシャルサイト
http://www.kuuki-ningyo.com/
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