『ソフィアの夜明け』

上原輝樹
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去年のTIFFでイニャリトゥ、スコリモフスキ、キャロリーヌ・シャンプティエらの審査委員が満場一致でグランプリに選出し、最優秀監督賞、最優秀男優賞の三冠に輝いた『イースタン・プレイ』が、1年後の今、『ソフィアの夜明け』として劇場公開される。

社会で自分の居場所を見つけられず苦悩する若者の物語といえば、本作の舞台ブルガリアの首都ソフィアに限らず、世界中のありとあらゆる場所に掃いて捨てるほど転がっているに違いないが、何がこの映画をそこまで特別なものにしているのか?

本作を観る前に、主役のイツォを演じたフリスト・フリストフが、撮影直後に不慮の事故で他界してしまったことも知らされていたし、本作を観た後に、イツォのキャラクター設定が、フリストフそのもので、彼をドキュメントするようにして映画が紡ぎあげられていったことも、資料を通して知るに至った。しかし、こうした"事実"ばかりが、本作を時別なものにしているわけではない。

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映画は、二人の男を追って展開していく。一人は、デニムのオーバーオールを上半身裸に纏う木工作業員イツォ、昼間からカフェでビールを飲み、やさぐれた風情が漂う。もう一人は、スキンヘッドの痩せ細った若者ゲオルギ、彼は、無闇に親の威厳を示したがる父親とショッピングとコスメティックが最大の関心事であるかのような母親との日常に辟易し、地元で幅を効かせているネオナチのギャング連中とつるみ始めている。

イツォには、大学で演技を学ぶガールフレンド、ニキがいる。彼女はイツォを愛しているが、イツォは友人に彼女を"ただのSEXだ"と紹介したり、始終つれない態度を示し彼女の心を傷つける。観客はいずれ、彼のそうした振る舞いは、ドラッグ中毒によるものであることを、投薬治療に通院する彼の姿を通して知ることになる。そして、慎ましいキャメラワークでドキュメントされたイツォ=フリストの手が描くデッサンによって、彼がまだ世間に認められてはいないが才能のあるアーティストであることも観客の眼前に示されていく。

スキンヘッドの若者ゲオルギは、多くの思春期の若者がそうであるように、家庭で居心地の悪い思いをしている。ネオナチ連中の影響でスキンヘッドにはしているが、心の奥では、真っ当に社会への関心を持っていて、それ故に、不寛容な父親や欲望の塊でしかない俗悪な母親が許せず、内面に混乱を抱えている。その捌け口のようにネオナチのギャングと付き合い、ついにはトルコからの観光客親子を襲う暴力沙汰を引き起こしてしまう。イスラム教圏からの観光客であるトルコ人の襲撃は、実は裏で政治的勢力がネオナチの若者を金で操ってやらせた政治的プロパガンダの一環であることなど、ゲオルギは知る由もない。

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いよいよ暴力がエスカレートしようとしている、その襲撃現場に、ニキとのデートをぶち壊したばかりで意気消沈しているイツォがノコノコと歩いてきて居合わせる。反射的にイツォは、襲われている親子を庇い、その結果イツォは一方的に殴られてしまう。ただただ一方的に殴られただけではあったが、結果的にトルコ人親子を助けることになったイツォと、ギャング一味に加担したゲオルギが、ここで初めて視線を交わす。キャメラは、この視線の交わりを濃密に描いてみせるが、なぜ、そこで二人の視線が交わる必要があったのか、この場ではすぐに明かされない。

映画冒頭に"つなぎ"姿で登場した時と比べると、トルコ人親子を救った一件をきっかけに好人物に見えてきたイツォが、不意にゲオルギの住むアパートにやってきて、さして遠慮する気配もなくその家のテーブルに着く時、はじめて観客は、イツォとゲオルギが兄弟であることに気付かされる。この家族の様子から、弟のゲオルギが抱える"苦悩"は、かつて兄イツォが抱えていた"苦悩"と同じもので、それが彼が抜け出したいともがいている"薬物依存"の遠因だったことも伝わってくる。そんな息の詰まる家を後にした兄は、弟と連れ添い、ソフィアの街並を二人で眺めながら、「やつらのマネをするのは、髪型だけにしておけよ」と優しい口調で忠告する。

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まだ見ぬ自らの個展だけが唯一の"希望"だったイツォに新たな"希望"が芽生えはじめたのも、その襲撃事件がきっかけだった。襲われた父親には、美しい娘ウルシュがおり、彼女はイツォに感謝の気持ちを隠さなかった。ウルシュは、イツォとの外出に反対する両親の目を盗んで、二人で夜のソフィアの街に出掛ける。知的な美しさを放つウルシュは、聡明さと若さゆえの理想主義でイツォを惹き付ける。二人はその繊細さの内に、男女の恋愛感情を超越した瞬間をソフィアの夜の街で共有し、お互いの魂に共鳴する。

イツォが育ったのは、あまり恵まれた環境だったとは言えないかもしれない。しかし、どんな環境に育っても人間には"善きもの"として生きたいという根源的な欲求があるに違いない。イツォは「おれは善きものとして生きたかったのに、人を傷つける事しかできなかった」と嘆く。イツォと共に時間を過ごした私たちは、彼がどれほど善きものとして生きようとしたか、充分にわかっているが、彼にはそのことがわからない。自分のことは自分が一番わからないという不幸が彼の善良な魂を苦しめる。

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現在開催中の吉田喜重監督特集、『嵐を呼ぶ十八人』上映後の蓮實重彦氏のレクチャーで、映画史には、路面電車を撮った映画作家と撮っていない映画作家の系譜があると語った。その"路面電車の映画的フェティシズム"に連なる映画作家の系譜は、『サンライズ』のムルナウに始まり、『シルビアのいる街で』のゲリンに終わる。吉田喜重監督もこの系譜に属することが『嵐を呼ぶ十八人』を観れば分かるとのことであったのだが、本作にそれらの作品のように路面電車の"中"で撮影しているシーンがあるわけではないけれども、ほんの僅かな時間、イツォに希望が訪れる、路面電車が過ぎて行くソフィアの夜明けをどうぞ見逃さずにご覧頂きたい。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.03

路面電車の出て来る映画という視点があったとは…。邦画では(それから)や(海炭市叙景)などの街の景観が頭をよぎる。
この映画でも、ソフィアの街に生きていく青年画家の兄貴 と弟の苦悩があったー。トルコの映画の出演で知られる彼女、ウルシュ の存在感もいい!
新宿のケイズシネマ の(ラテン、ラテン、ラテン)映画特集の際(サウダーチ)という浜松市を舞台にした日系ブラジル人社会を垣間見せる映画の予告扁が流れていたが、その時、夜の浜松とソフィアがオーバーラップしていたー。

『ソフィアの夜明け』
英題:EASTERN PLAYS

10月下旬より、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開後、全国順次公開
 
監督・脚本・プロデューサー・編集: カメン・カレフ
撮影監督: ユリアン・アタナソフ
ミュージック・スコア: ジャン=ポール・ウォール
音響: モムチル・ボジコフ / ボリス・トラヤノフ
プロデューサー・編集: ステファン・ピリョフ
編集: ヨハネス・ピンター 
出演:フリスト・フリストフ、オヴァネス・ドゥロシャン、サーデット・ウシュル・アクソイ、ニコリナ・ヤンチェヴァ、ハティジェ・アスラン 他

2009年/ブルガリア/89分/カラー/ビスタサイズ/ドルビーデジタル
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム

『ソフィアの夜明け』
オフィシャルサイト
www.eiganokuni.com/sofia


カメン・カレフ『ソフィアの夜明け』インタヴュー
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