『奇跡の2000マイル』

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上原輝樹

トム・ウェイツの「レイン・ドッグ」という名曲揃いのアルバムの中に、珠玉の一作を締めくくる「レイ・マイ・ヘッド/Anywhere I Lay My Head」という曲がある。そこでトム・ウェイツは、"体を横たえる、その場所がどこであろうと、そこが我が家だ"と咆哮する。数知れない挫折を経て、孤独にも慣れてしまったノマド的境地を、"歌う"というよりも、ギンズバーグの「吠える」さながらに、獣の如く "吠えて"いる。"酔いどれ天使"トム・ウェイツの曲の主人公は、何も好き好んで孤独の境遇に甘んじているわけではない、"どんな場所でも眠れるようになる"までに、どれほど多くの辛苦を舐めたことだろう。「レイ・マイ・ヘッド/Anywhere I Lay My Head」という曲を聴くと、そこに濃縮されたひとりの男の諦念が、解凍されて生々しく溢れ出す、そんな感情の迸りを感じる。ニューオーリンズの祝祭的なサウンドが、そんな男の人生に陽気に寄り添っている。

なぜ、そんな話をしているのかというと、 "どこへ行っても居場所のない者がいる。私もそうした者のひとりだった"という、本作主人公のモデル、ロビン・デヴィッドソンの言葉が映画冒頭で引用されているからだ。これは、ロビンが旅を始める前の心境を綴った言葉だが、そんな"どこにも居場所がなかった"彼女が、愛犬と4頭のラクダとともに、そこ(Nowhere)から旅立ち、2000マイルを踏破することで到達した"どんな場所でも眠れる"ノマド的境地に至るまでのプロセスを描いたのが、本作であるとひとまずは言って良いだろう。

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映画は、踏破のプロセスをつぶさに映し出すことで、ひとりの女性が2000マイルもの砂漠を歩ききった、その"奇跡"を構成する"特別な瞬間"というよりはむしろ、それを成し遂げたひとりの女性の"変容"を描き出そうとしているように見える。ロビンは、砂漠を横断するのに必要なラクダを得るために、牧場で働き、ラクダの調教方法を教わる。そして、綿密な横断計画を練って、計画を実行に移していく。"2000マイルを踏破"という大文字の事実には、神秘性が宿るが、そのプロセスを細分化していけば、神秘性は分解され、無謀さは影を潜めていく。そうして始まったロビンの旅は、それ相応の困難は伴うものの、まずは順調に滑り出していく。

恐らくは、実際のロビンが兼ね備えていたと思しき"平常心"らしきものを、ロビンを演じるミア・ワシコウスカも上手に纏っている。それは例えば、ロビンが旅先で出会う人々との距離感に現れている。砂漠の真ん中の一軒家に住む老夫婦との出会いや言葉の通じないアボリジニの人々とのコミュニケーションにおいて示されるロビンの、分け隔てしない平静な佇まいが、本来は異質に見えてもおかしくないロビンを、周囲の環境に溶け込ませている。しかし、ロビンのそうした平静さは、都会から訪れた友人たちとの会話から距離を置き、彼女を慕う写真家リック・スモーラン(アダム・ドライバー)をも遠ざけようとする彼女の離人症的振る舞いと表裏一体の関係を成しているようにも見える。

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情報が横溢する現代の慌ただしい都会的生活から離れて、砂漠への旅を決意したロビンだったが、皮肉なことに、"世界"は彼女を放っておかなかった。ロビンの旅をサポートしたナショナル・ジオグラフィック誌は、写真家のリックに旅の写真を撮らせることを条件として示した。都会の喧噪を離れて砂漠までやってきて、"主体(自分)"を取り戻そうとしたロビンだったが、結局は"対象"として捉えられてしまうことへの苛立ちを隠さない。

物理的な2000マイルの旅は、徐々に、ロビンの内面の旅の様相を明らかにし始める。そこで慎ましやかに示されることになる、彼女の家族に起きた悲劇、そして、"犬"にまつわる挿話が、そもそもロビンがなぜこの旅を始めることになったのか、そのヒントを見る者にそっと差し出してくれるだろう。"平常心"を装う、彼女の離人症的側面、恐らくは、それを齎すことになった家族の悲劇、その内面を穿った大きな空白を埋めていく、精神的道程と物理的な2000マイルの道程が、慎ましやかに関係作られていくナラティブに、本作の誠実さが息づく。

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原題(Tracks)が示す通り、ロビンの精神と肉体の旅、複数の旅を描く本作は、行程が進むにつれて不安定さを増していき、影を潜めていた"危険"がそこかしこに姿を顕し始める。野生のラクダに襲われることの恐怖や、過酷な天候といった蓋然性の高い"危険"のみならず、そうした事態が生み出す恐怖心が、彼女の心から余裕と自信を奪っていく。自らの主体性を脅かしていたはずの写真家リックとの関係には親密さが芽生え、心を許すようになったかと思えば、一方では、リックは邪魔な闖入者でしかないと愚痴をこぼす。描かれるのは、明らかに矛盾した心理だ。

本作は、ある種の映画が陥り勝ちな"明解な人物造形"を退けて、立ち止まり、逡巡し、全ての旅は無意味だったと後悔すらし始める主人公の姿を描いている。もはや計画された明晰さは過去のものとなり、あとはひたすら、歩みを続けるしかない。ミア・ワシコウスカのサンダル履きの素足が地面を踏みしめる度に土埃が舞う赤い大地は、どこまでも延々と続き、キャメラは、一歩一歩大地を踏みしめていくミアの足元を、何度も何度も、その視界に捉えてゆく。

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本作は、ミア・ワシコウスカにとって、17歳でスクリーンデヴューを飾った2006年(『Suburban Mayhem』『Eve』)以来、約8年振りの母国オーストラリアでの撮影であったという。ロビン・デヴィッドソンという実在する著名な人物を演じているにも関わらず、映画の主演女優に相応しいエニグマティックな資質を濃厚に漂わせる、ミアの存在感が素晴らしい。

ミア自身の言葉によると、指示通りに動きをこなす、とても付き合いやすい"Film Animal"だったというラクダ達や、それに比べて撮影が大変難しかったという"黒い犬"との共演においても、ミアは、劇中で"Camel Lady"と呼ばれるに相応しい佇まいで画面に収まっており、雄大なスケールのシーナリーの一部として映画のスクリーンに溶け込みつつも、人類ではなく、他の動物と共に生きる時間の中で"主体"を回復していく、ミア≒ロビンの映画ならではの幻惑的な二重性が見る者を魅了する。

『イノセント・ガーデン』(13)を彷彿させるライフル銃を構える時の表情や、離人症的に振る舞う時に見せる孤独の表情を、 "居場所を見つけた"彼女がエピローグで見せた笑顔に重ね合わせてみる時、その"変容"を生じさせた、精神と肉体が移動した2000マイルという距離の途方もなさに呆気にとられながらも、オーストラリアの大地でミアのサンダル履きの素足が示し続けたが如く、一歩一歩歩んでいくことで到達する境地が、誰の人生においてもあるはずだ、という楽観性を強く肯定する欲求に駆られずにはいられない。


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『奇跡の2000マイル』
英題: TRACKS

7月18日(土)より、有楽町スバル座、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
 
監督:ジョン・カラン
製作:エミール・シャーマン、イアン・カニング
製作総指揮:アンドリュー・マッキー、リチャード・ペイテン、ザヴィエル・マーチャンド
原作:ロビン・デヴィッドソン
脚本:マリオン・ネルソン
撮影:マンディ・ウォーカー
プロダクションデザイン:メリンダ・ドーリング
衣装デザイン:マリオット・カー
編集:アレクサンドル・デ・フランチェスキ
音楽:ガース・スティーヴンソン
出演:ミア・ワシコウスカ、アダム・ドライバー、ローリー・ミンツマ、ライナー・ボック

© 2013 SEE-SAW(TRACKS)HOLDINGS PTY LIMITED, A.P. FACILITIES PTY LIMITED, SCREEN AUSTRALIA, SOUTH AUSTRALIAN FILM CORPORATION, SCREEN NSW AND ADELAIDE FILM FESTIVAL

2013年/オーストラリア/112分/カラー
配給:ブロードメディア・スタジオ

『奇跡の2000マイル』
オフィシャルサイト
http://www.kisekino2000mile.com
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