『危険なプロット』

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人はみな、物語の"続き"を知りたがる
小説を題材に構造主義を描いた知的サスペンス
star.gifstar.gifstar.gifstar.gifstar_half.gif 鍛冶紀子

写実主義の礎を築き、文学史にその名を深く刻んだギュスターヴ・フローベール。フランソワ・オゾンの新作は、この文学の巨匠の名を冠した高校を舞台とした、物語論に関する映画だ。もともと、ユーモアとアイロニーの相まった作風に定評のあるオゾン監督だが、本作ではその手腕が遺憾なく発揮されている。教育、文学様式、現代美術までもをおもしろおかしく揶揄する、そのアイロニカルな視点は会話、本、インテリアなど、さまざまな形でちりばめられており、さながら謎解きを求めるかのようだ。監督のインテリジェンスとセンスが光る。そのセンスはキャスティングにも大いに活きていて、主人公の高校生を演じるエルンスト・ウンハウワーを発見し、あのエマニュエル・セニエに凡庸な主婦を演じさせ、クリスティン・スコット・トーマスとファブリス・ルキーニというベストカップルを生み出した。監督自身も語っているが、スコット・トーマスとルキーニのカップルは往年のアレンとキートンを彷彿させる。

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フローベール高校で国語教師をしているジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は作家の夢にやぶれた中年男性。現代アートを扱うギャラリストである妻ジャンヌ(クリスティン・スコット・トーマス)と二人暮らし。フローベール高校では実験的に制服の着用が開始され(フランスの学校はほとんど私服なのだが、最近制服の導入が再検討されているという)、校内には同一の身なりをした生徒たちで溢れる。その様を没個性の羊の群れだと感じていたジェルマンは、ある日作文の添削によってひとり異彩を放つ"黒い羊"を見つける。

白い羊たちの退屈極まりない作文に苛立っていたジェルマンだが、クロード(エルンスト・ウンハウワー)の作文を発見して思わずジャンヌに読み聞かせる。それは勉強を教えるため、同級生宅を訪問した際のひとこまを綴ったものだった。特別な出来事があったわけでもなく、友人宅でのひと時を淡々と記した、言わば写実主義的なテキストなのだが、友人の母であるエステル(エマニュエル・セニエ)を「中産階級の女」、一家のことを「平凡」と表現するセンスに、ジャンヌは不穏な空気を感じる。しかし、文末に書き記された「続く」のひと言にジェルマンはもちろん、ジャンヌもいい知れぬ興味をそそられる。

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ところで、黒い羊は白い群れの中で目立つうえ、キリスト教において不吉な色であることから「一家の厄介者」の意味を持つ。クロードが仕掛けた「続く」の罠にはまったジェルマンは、黒い羊を自らの元へ招き入れてしまう。クロードに小説の書き方を個人指導を始めるのだ。クロードはジェルマンという格好の読者を得てますます魅惑的な「続き」を執筆し、教師と生徒、つまり、教える者と教えられる者の関係だったはずの二人が、いつしか小説家と読者の関係に凌駕されていく。クロードは『千夜一夜』のシェヘラザードのごとく、「続き」によってジェルマンの心を操って行く。しかし、シェヘラザードが王を改心させたのとは反対に、クロードはジェルマンの人生を狂わせてゆく。

キャメラは現実世界と小説世界を交互に行き来する。実在の家庭を舞台とするこの小説は、一体どこまでが真実なのか?当初、友人宅で見聞きしたことをそのまま綴っているように思えたテキストに、クロードの創作かもしれない要素が入り込み始める。現実世界と小説世界の境界線が曖昧になり、私たちはジェルマンと共に「続き」に翻弄される。やがて、友人のラファ家に入り込んだクロードは家族の面々と性的な香り漂わせはじめる。パゾリーニの『テオレマ』(68)を知っている私たちは、やがて来る家族の崩壊を想像してしまうのだが──。

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"現実"シーンのほとんどはジェルマンを主として描かれ、"小説"シーンはもちろんクロードを主として描かれている。言わば視点が不定焦点化されている。視点の問題は文学においても伝統的な問題で、フローベールの『ボヴァリー夫人』は三人称小説を語るうえで必ずその名が挙げられる。本作においても「視点」は重要なキーワードだ。なんせ舞台はフローベール高校である。当初"小説"シーンはクロードが登場人物であり語り手でもあった。しかし、ジェルマンの指導が入ることで視点が複数化する。それによって、語り手であったクロードが外的焦点化され、読み手(ジェルマンやジャンヌ、そして私たち観客)にはクロードの心理がはかれなくなっていく。クロードの語りは少なくなり、映像の力が増して行く。

当初クロードの文章は、フローベール高校の名にふさわしく写実主義の香りがあった。ジェルマンはクロードを指導する上でいくつかの小説を読ませるのだが、それはカフカでありドストエフスキーといった実存主義の作家で、「小説家としての飛躍=現状からの脱却」を促しているように見える。それはおそらく自分自身への希望でもあっただろう。ジェルマンはフロベール高校にうんざりしていたし、叶えられなかった作家への夢をクロードに転嫁していた。しかし、クロードの「続き」はジェルマンの意図に反してロマン主義的で、エステルに甘やかな詩を贈り、愛の逃避行を持ちかける。物語世界外の人物だったジェルマンは、文学への執着から"小説"シーンに侵入するようになり、"現実"と"小説"の境界線が崩壊していく。

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エステルとクロードの関係がひとつの山場を過ぎ、ラファ家を舞台とした物語が結末を迎えたところから、この映画の"結末"が始まるのだが、それはフロイトの「夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である」という言葉が脳裏に浮かぶシーンからスタートする。そして驚愕のエンディングへと突入して行く。それにしても、クロードがジャンヌに投げた言葉の矢は、あまりにも冷徹だ。道徳を越えて小説の続きを求めてしまったジェルマンは、破滅的文体により現実への幻滅を描いたルイ=フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』の一撃により全てを失う。セリーヌは自著について「これは文学の本ではない、人生の本だ」という言葉を残している。文学を愛したジェルマンにとって、これほどの皮肉があるだろうか。

しかし、監督は『dans la maison(原題)』という映画の登場人物であり語り手でもあるジェルマンに、人生もまた物語であるというやさしい結末を用意した。キューブ状のアパルトマンを前に物語について語り合うジェルマンとクロードの姿は、その見た目とは裏腹に幸せそうだ。人はみな何かの物語の中にいる。フローベール高校を舞台にしたジェルマンとクロードの物語はフランソワ・オゾンによって構造主義小説に昇華された。ジェルマンが望んでいた現状からの脱却はオゾン監督の手によって叶えられたのだ。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2016.09.13

ロードショーのポスターイメージでは教授がファブリス・ルキーニだと気が付かずシリアスな心理ものだと思っていた。見逃していて、スター・チャンネルのTV 画面で観賞と相成ってコミカルな味わい…。ウッデイ・アレン監督・主演のアニー・ホール風な掛け合いもある!映画(屋根裏のマリアたち)で演じられた人の善い持ち味と青年に託された悪魔的な誘惑という創作上の虚構が実生活との壁を曖昧にしていくスリリングさは流石としか言う他ない。

『危険なプロット』
原題:Dans la maison

10月19日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほか、全国公開
 
監督:フランソワ・オゾン
製作:エリック・アルトメイヤー、ニコラス・アルトメイヤー
原作戯曲:フアン・マヨルガ
脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ジェローム・アルメーラ
美術:アルノー・ドゥ・モレロン
衣装:パスカリーヌ・シャヴァンヌ
編集:ロール・ガルデット
音楽:フィリップ・ロンビ
出演:ファブリス・ルキーニ、クリスティン・スコット・トーマス、エマニュエル・セニエ、ドゥニ・メノーシェ、エルンスト・ウンハウワー、バスティアン・ウゲット

© 2012 Mandarin Cinéma - Mars Films - France 2 Cinéma - Foz

2012年/フランス/105分/カラー/ビスタ/5.1ch
配給:キノフィルムズ

『危険なプロット』
オフィシャルサイト
http://www.dangerousplot.com
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