『J.エドガー』

上原輝樹
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ワシントンD.C.のペンシルベニア大通りからFBIオフィスが存在するジョン・エドガー・フーヴァー・ビルディングを捉えるエスタブリッシュ・ショットに続いて、執務室にいる70歳代のジョン・エドガー・フーヴァーに扮するレオナルド・ディカプリオの老けメイクを映画冒頭で大胆に見せてしまうことで、着けるのに5時間、落とすのに3時間を要したというその姿に観客を慣れさせてしまおうなどという計算がクリント・イーストウッド監督の脳裏を掠めたとは到底思えないものの、老境に達したJ・エドガー・フーヴァーが、いよいよ私の側から自分の物語を語る時が来たと告げ、局員に自らの人生のハイライトを口述しようとする場面から始まる本作は、"20世紀米国における最大の権力者"と言われた男が自らの生涯を語ろうとする"高揚感"よりも、黒い影の支配的な画面が象徴的に漂わせる、ある種の禍々しい重々しさが映画を冒頭から支配している。

『ブラッド・ワーク』(02)以降、全てのイーストウッド作品で撮影監督を務めているトム・スターンが、本作においてもその任に着き、台詞の量や、それに伴う撮影テイク数がいつものイーストウッド作品よりも多い、複雑な人物のポートレイトである本作を、ノワールな質感を持った犯罪映画のルックでフィルムに定着させている。

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映画は、フーヴァーの記憶を辿って、1919年のワシントンへとフラッシュバックする。当時の米国は、第一次世界大戦(1914〜18)の戦勝国ではあったものの、戦争から平和への過渡期にあり、労働闘争や人種暴動が社会的不安を嵩じる中、1917年にロシアで権力を握り、暴力による革命も辞さないとするボルシェビキが、その影響力を米国にまで及ばせていた。

キャメラは、ジェフ・ピアソン演じるミッチェル・パーマー司法長官の自宅の階段を登る、そのあまりにも重い足取りを捉えるだろう。そして、ようやく寝室へ辿り着いた彼に休息の暇を与える間もなく、妻が眠るその寝室を爆音と共に烈風が吹き抜け、窓ガラスは粉々に砕け散り、室内が大破する。この史実に残るパーマー司法長官宅爆破事件と同時多発的に起きた爆破事件を"戦時下のワシントン"を印象づける夜の戦火で描き、若き日のフーヴァーが、共産主義者への憎悪を募らせ、国内の秩序を打ち立てる必要性を自分なりに確信していった場面を印象的に活写している。この戦火が立ち上るワシントンの光景を観た多くの観客は、911の同時多発テロの記憶を脳裏にダブらせたに違いない。この事件の現場に自転車で駆けつけ、素早く証拠物件を集めて長官の歓心を買ったフーヴァーは、局内でメキメキと頭角を表し、若くして管理職まで登り詰めて行く。

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ガス・ヴァン・サントの『ミルク』の脚本で一躍その名が知れ渡ったダスティン・ランス・ブラックが手掛けた脚本は、そんな野心に満ちた男、ジョン・エドガー・フーヴァーの20代から77歳までの50年間余りを、アメリカ現代史の闇と並走させながら、彼の周囲のごく親しかった3人の人物に焦点を充てて描くことで、伝説と秘密に彩られた男の謎めいた生涯の悲劇の源泉を鮮やかに解き明かそうとしている。

J.エドガーの出世を一番喜んだのは、母親のアニー(ジュディ・デンチ)だった。あたかも亡霊かゾンビのような風体で画面に一度だけ登場する"父親"とも、画面に一度も登場することすらなかった"兄"とも、"あなたは違うのだから、あなたはこの家の誇りであり、危機にあるこの国を救う偉大な人物にならなければならない"、そう我が子を諭し続け、過剰な愛情で息子を支配する彼女は、マザコン男性を培養する社会的傾向が米国で強まったとされる時代に作られたヒッチコックの『サイコ』(60)やウォルター・E・グローマンの『不意打ち』(64)の"母親"たちと同じ恐怖感を観る者に抱かせる。晩年の病床に臥したアニーの顔の造形が、『サイコ』のスケルトンに限りなく近づいて行く辺り、如何にも確信犯らしい作りになっている。

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そんな母親が、息子がデートをすると聞きつけ、意気揚々と服装の指南を施し、家から送り出すのだが、頭の回転が早い分、思い込む速度も人一倍早かったと思われるエドガーは、局の廊下で見初めたヘレン・ガンディ(ナオミ・ワッツ)を、(イーストウッドを甚く魅了したという)荘重な建築で知られる国会図書館に連れ出し、数回会っただけの間柄にも関わらず、プロポーズの言葉を投げかける。エドガーの申し出をヘレンがけんもほろろに断ったことに観客は左程驚きはしないかもしれないが、この日をきっかけにある種特別な関係になった二人が、以降生涯に渡って信頼を培って行ったという事実に、後になって不思議な感慨を抱くことになるだろう。

男性と恋愛をして、結婚し、家庭を築くという一般的なステレオタイプに疑問を投げかけた"ウーマン・リブ"が米国を席巻したのが60年代であったことを考えると、このプロポーズが行われた時代設定はその随分前であるだけに、ヘレン・ガンディの人物造形が一瞬ピンと来ないわけだが、彼女が時代に先んじた女性の一人であったことを想像すれば、その違和感も容易に瓦解する。彼女は、エドガーが全幅の信頼を寄せた数少ない人物の一人であり、捜査局の実務を実質的に切り盛りしていた人物であったことを現在のFBI長官ロバート・S・ミュラー自身も認めている。

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ヘレン・ガンディ同様、エドガーが信頼を寄せ、常に行動を共にしたのが、『ソーシャル・ネットワーク』の"ヨット部の秀才"にして"木偶の坊"の役が板についていたアーミー・ハーマー演じるクライド・トルソンだった。監督の仕事は、キャスティングを終えてしまえば90%は終わったようなものだと語ったのは、ウディ・アレンだったか、イーストウッドだったか。クライド・トルソンが瀟酒なバーで画面に初登場し、エドガーが彼を見初めるカットに続いて、知人からエドガーに紹介されたクライドが丸みを帯びたエレガントな口調で語り出す時、誰もがこの二人の間に抜き差しならない何かが生まれたことを感じたに違いない。こうして、それぞれの主要な登場人物が、画面に最初に現れた瞬間にその特徴を早々とセットアップしてしまう、イーストウッドの演出手腕が冴えている。

ヘレン・ガンディという片腕を得て、クライド・トルソンのハンティングにも成功したエドガーは、FBIの捜査局のトップへ登り詰め、次々に一般大衆が注目する事件を半ば強引な手段で"解決"というよりは"幕引き"していく。リンドバーグ愛児誘拐殺人事件、マシンガン・ケリー逮捕、"パブリック・エネミー"ジャック・デリンジャー射殺、、、禁酒法が施行され、地下に潜ったギャングたちが庶民に娯楽を提供し、マイケル・マンが『パブリック・エネミーズ』(09)で描いた通り、銀行を襲う強盗が痛々しくもクールにもてはやされた時代。捜査官メルヴィン・パーヴィスとジャック・デリンジャーのダンディズムに満ちた対決を描いた傑作活劇の中では、パーヴィスの手柄を横取りし、場違いな野暮ったさで登場するしかなかったフーヴァーだったが、そこでは左程描かれなかった彼の"やり口"が本作ではしっかり描写され、映画におけるアメリカ現代史のミッシング・リンクを補完している。『インヴィクタス』でネルソン・マンデラの生涯を描いた時も、先達の秀作『マンデラの名もなき看守』(07)で描かれた時代の後から映画が律儀に始まっていたことが想起される。

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しかし、ギャングが全盛の時代はエドガーにとっては、まだ良かった。政治家の秘密を入手し、それを極秘ファイルとして管理することで、米国大統領をも恐れさせる男として、長きに渡って権力の座に君臨してきたエドガーだったが、"共産主義"の恐怖がチルアウトし、ベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカ民主主義の表と裏が世界に明らかになりつつある時代にあって、未だ情報操作による暗然たる民衆支配が可能であると錯覚し続けたエドガーは、次第に時代を読み違えて行く。国内では公民権運動が勢いを増し、人々は"自由"を求めていた。この時代の変わり目に、エドガーが一体どんな行状に及んで、自らの影響力を駆使しようとしたのか?その反道徳的、反倫理的な違法行為が、J.F.ケネディ大統領とモンローの密会を押さえた盗聴テープ、マーティン・ルーサー・キング牧師とケネディ兄弟の暗殺というアメリカ現代史の闇の中に浮かび上がってくる。

アメリカの現代史と並走させるが故に、イーストウッド作品にしては最大の部類に入るに違いない台詞の多さは、だからといって、映画的感興を殺ぐわけではなく、むしろ、それぞれのテーマに関するダスティン・ランス・ブラック=イーストウッドの知見が示されているように見えて興味をそそる。そして、エドガーの生涯を俯瞰した時に、いかにも彼の生涯を語るに相応しい映画的叙述のトリックが見事に駆使されていることについて、ここで具体的に触れるのは野暮というものだろう。

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ファスビンダーの『秋のドイツ』(78)を想わせるクライドとの若かりし日の激しい時間と交錯しながら描かれる、晩年の二人を暖かい日差しが包み込む室内で苦々しい"真実"が明かされる緩慢な時間、この終盤に描かれるエドガーとクライドの親密な時間に、本作の最も苛烈にして悲劇的な愛の瞬間が立ち上がる。

そして、最愛の母が亡くなり、エドガーが鏡の前で母親の服を着るシーン、亡くなったエドガーをクライドが抱擁する本作の白眉ともいうべき残酷なシーンで流れる美しく静謐なピアノスコアが、過剰な母性に人格を抑圧され、大時代的なアメリカン・スタンダードと正義への期待を過度に要求された挙句、本当の自分を偽って生きるしかなかった男への、イーストウッドなりの優しい鎮魂の気持ちを繊細なタッチで伝えている。


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『J.エドガー』
原題:J.EDGAR

1月28日(土)ロードショー
 
監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド
脚本:ダスティン・ランス・ブラック
製作:ブライアン・グレイザー、ロバート・ロレンツ
製作総指揮:ティム・ムーア、エリカ・ハギンズ
撮影:トム・スターン、AFC、ASC
美術:ジェイムズ・J・ムラカミ
編集:ジョエル・コックス、A.C.E.、ゲイリー・D・ローチ
衣装:デボラ・ホッパー
出演:レオナルド・ディカプリオ、ナオミ・ワッツ、アーミー・ハマー、ジョシュ・ルーカス、ジョディ・デンチ

© 2011 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC.

2011年/アメリカ/137分/カラー
配給:ワーナー・ブラザース

『J.エドガー』
オフィシャルサイト
http://www.j-edgar.jp
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