『フラメンコ・フラメンコ』

鍛冶紀子
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死期を象徴する灰色の空と、再生を象徴する黄金色の空。その境にひとすじの虹。鏡のように磨き上げられたタブラオ(板張り舞台)に、その映像が映り込む。舞台には11人の楽隊。その真ん中でファルキートが汗をほとばしらせながら床を踏みならす。キレのある回転、しなやかな体躯。見事なサパテアード(床を踏みならしてリズムをとること)。シートに座りながら思わず前のめりになった。そしてただひたすら感嘆のため息。

『フラメンコ』(95)から15年、カルロス・サウラが再びフラメンコを撮った。『フラメンコ』で伝統を撮ったとするならば、『フラメンコ・フラメンコ』では現在そして未来を撮っている。『フラメンコ・フラメンコ』の出演者の多くは70年以降の生まれ。最年少の11幕の「SEGUIRIYA<シギリージャ>」を踊るカルペータに至ってはまだ10代半ばだ。その兄であり、現在のフラメンコ界のスターとも言える存在のファルキートですら、26歳(2009年当時)なのだから、サウラが再びフラメンコを撮ろうとした理由がわかる気がする。

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15年前、まだ少年だったファルキートは祖父のチョコラーテと共に『フラメンコ』に出演している。幼い彼は眉間にシワを寄せながらただひたすら踊っていた。あれから15年、大人になった彼は微笑みながら楽しそうに踊っている。時にカンタオールに誘うような視線を投げ掛けながら、時にカンタオールを引き連れるようにして、舞台上を流れるように踊る。表情にも踊りにも自信が漲っている。何よりも本当に楽しそうなのだ。15年の月日は彼にこれだけの進化をもたらした。月日とともにフラメンコにも新しい歴史が刻まれて行く。その様をカルロス・サウラは美しく記録し、フラメンコが常に未来に向かっていることを世界に知らしめた。映画を撮るものとして、どうフラメンコに関わるのか。サウラはこれ以上にないベストな選択肢を持って映画監督としてフラメンコに携わっているように思える。新しい歴史という意味では、サウラをもってして大きな驚きだったと言わしめたバイラオール、イスラエル・ガルバンに注目したい。彼が踊るのは12幕目の「SILENCIO<静寂>」。もはやフラメンコの枠を越えたフラメンコを見ることができる。

その一方、サウラは「我々はとても力強く且つ新しいフラメンコが存在すると認識している。 (途中略) 同時に、スペインが誇る偉大なマエストロたち抜きには、フラメンコの芸術の真実を反映させられないことも、我々は認識していた。」と語り、パコ・デ・ルシア(47年生まれ)、マノロ・サンルーカル(43年生まれ)といった「フラメンコの歴史を構成してきたアーティストたち」を招き、新世代とコラボレーションさせている。ベテランたちは樹々で例えるならば幹となり、瑞々しい若葉たちを支えている。

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全21幕のパロから成る本作のベースには、"生命の旅"という大きな流れがある。誕生、幼少期、思春期、死期、そして再生。そのターム毎に異なる光が舞踏家たちを照らす。誕生は白い光に、幼少期は黄金色の太陽の光、思春期は黄色と青の入り交じる夕暮れ空。成人期には深い青に。やがて闇がその濃さを増して行く。闇の中に少しずつ光が宿りはじめ、雨が降り、虹がかかる。そして再び夜明けが来る。ラスト、キャメラはダンサーたちがいた建物を飛び出し、セビージャの街に出る。遠くにクラクションの音が聞こえるのだが、この演出が心にくい。このタイミングで聞く街の喧噪はどこか懐かしく、私たちはそれまでフラメンコによって異世界へ導かれていたことを知る。まるでひとつの人生を辿ったような、大きな物語を読み終えたような満足感とともにフラメンコの世界を後にすることになる。

『フラメンコ・フラメンコ』がかくも確固たる世界観をもって仕上がっているのには、光の魔術師ことヴィットリオ・ストラーロの力が大きい。その映像美は圧倒的。もはや美しいを超えて神々しいと言った方がよいかもしれない。ダンサーたちの背景に絵画を用いていることもあり、全てが絵画のように見える。『フラメンコ』では背景がシンプルに光のみだったことを思うと、要素の濃い絵画を用いたのはひとつの挑戦と言える。やりかたによってはダンサーを霞ませかねないのだが、そこはさすがストラーロ。色のある照明を用いて、絵画を含めて全体をひとつの絵として仕上げている。その完成度がすばらしい。踊り手や歌い手すらも、ストラーロが描く絵の要素となっている。ストラーロの有名な言葉に「Writing with Light<光で描く>」というのがあるが、まさにその真髄を見た想いだ。実際、ダンサーや歌い手を見ながら、その陰影の深さに時折カラヴァッジョの絵画が脳裏をかすめた。

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前作『フラメンコ』もストラーロによる撮影だが、それと比較するとこの15年間にキャメラ技術が一段と向上したことがわかる。映像がものすごくクリアで、出演者たちの顔に刻まれたシワ、衣装のひだの一筋まではっきり見て取れる。光と陰が織りなすグラデーションも密度が増している。クレーンを使ったと思われる撮影も多く、キャメラは一点に留まることなく、舞踏家たちを上下左右になめるように動き続ける。『フラメンコ』ではある一定のポジションからの撮影が多かったのと比べると、そのダイナミックさがよくわかる。 

それにしてもフラメンコは何故こうも観る者を惹き付けるのか。バイレ(踊り)、カンテ(歌)、トケ(ギター)が生み出すこの圧倒的な生命力はなんだろう。生きる喜びと生きる哀しみ、その両方を内包した世界。観ていると本当に胸が熱くなる。日本のフラメンコ人口はスペインに次いで多いという。感情表現が苦手と言われる日本人。情熱的と言われるスペイン人とは対極にあるように思えるが、感情を表に出さないだけで内側には熱いものを抱えている人が多いのだろうか。フラメンコを踊る事で、内に秘めているものを発散することができるのかもしれない。『フラメンコ』の公開によってフラメンコブームに火がついたように、本作でも再びその火が灯り、出演者たちの生のステージを観る機会が訪れることを願う。

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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.06

踊りのシーンが炸裂した効果を呼んだ映画では、ジャン・ルノワール監督の(フレンチ・カンカン)のラストシーンのトキメキを思い出してしまう。フラメンコのドキュメンタリー映画としては絵画的な要素の強いカメラワークの(フラメンコ、フラメンコ)、母と娘という視点からアマジャの踊りを追った(ジプシー・フラメンコ)など音と映像の美学♪特に、後者の脚の接写と床を蹴る音のシンプルな導入シーンは驚嘆に価する。
ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの(旅芸人の記録)ではないが音楽や踊りのシーンというものは、何度も見たくなるものです。
最近ゴーリキー原作の黒澤明監督作品(どん底)を見ましたが地獄のような長屋の住まいで男たちが踊り出す、なが回しラストシーンにビックリ!!
仲間の死で中断させられて庶民の怒りは頂点に…。ルノワール監督の(どん底)とも違う幕切れだった。

『フラメンコ・フラメンコ』
原題:FLAMENCO FLAMENCO

2月11日(土)より、Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー
 
監督・脚本:カルロス・サウラ
撮影監督:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:イシドロ・ムニョス
出演:サラ・バラス、パコ・デ・ルシア、マノロ・サンルーカル、ホセ・メルセー、ミゲル・ポベダ、エストレージャ・モレンテ、イスラエル・ガルバン、エバ・ジェルバブエナ、ファルキート、ニーニャ・パストーリ

2010年/スペイン/カラー/101分/1:1.85/SRD
配給:ショウゲート

『フラメンコ・フラメンコ』
オフィシャルサイト
http://www.flamenco-
flamenco.com/
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