『彼女が消えた浜辺』

上原輝樹
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アッバス・キアロスタミやマフセン・マフマルバフらの豊かな映画言語に、有史以来連綿と続く吟遊詩人の伝統が息づく国、アフマディネジャド大統領政権下、ジャファル・パナヒ監督が拘束され、アーティストたちの表現が検閲を受ける不条理が存在する国、人口の7割が30歳未満、大学生の女性比率は65%を超え、全国民の識字率が90%を超えるという高い教育水準を誇る若者の国<イラン>から彼の国の新しい時代の感性を感じさせる映画が届いた。アスガー・ファルハディ監督の長編第四作『彼女が消えた浜辺』は、ベルリン映画祭で銀熊賞、トライベッカ映画祭で最優秀作品賞を受賞、本国イランでも大ヒットを記録した作品である。

映画は、"神の名において"と訳されるペルシア文字と共に始まり、主要キャストの名前が表示されていく。その背景では、暗闇の中に配置されたキャメラが、小さな長方形の窓から光が差し込むさまを捉えている。その長方形の窓には、時折人の手が紙らしきものを差し込んでいる様子が映し出される。郵便ポストの中の空間だろうか?と訝る内に、その窓は、車のフロントガラスから見えるトンネルの向こう側の光景へと同ポジションで差し変わっている。トンネル内を疾走する車から、サングラスをかけた美女が顔を出し奇声を発する。車には数人の男女と子どもが同乗している。どうやら、週末を郊外のリゾート地で過ごすために、幾つかの家族が一緒に出かけてきたらしいことが、走る車の外に見えるキャンプ場に張られた色とりどりのテントから伝わって来る。緑の印象的な景観を捉えた撮影、流麗な演出とシームレスな編集という技術面の充実はさることながら、サングラスの女性が被るチャドルもスタイリッシュに見え、リゾート地を舞台にした南国の陽光溢れる60年代イタリア映画の風情を漂わせる秀逸なオープニング・シークエンスは、微かな"謎"の気配を漂わせながら、観客を一気に映画に引き込んでいく。

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この魅力的なサングラスの女性、本作の主人公セピデーを演じるのが、今作を最後にイランを離れることになったゴルシフテェ・ファラハニー。『ワールド・オブ・ライズ』(リドリー・スコット/07)でディカプリオと共演し世界的にブレイクした彼女は、1979年のイスラム革命以来、初めてハリウッドに進出を果たしたイラン人女優として知られることになったが、却ってイラン当局の反感を買い、一時は出国を禁ぜられる羽目に、現在は活動の拠点をパリに移している。

ゴルシフテェ・ファラハニー演じる世話好きのセピデーが中心になって、旧友たちの3家族が3台の車で3泊の小旅行の目的地に到着する。道中、「おしっこにいきたい」と言い出す子どもを、「いつも甘やかすからこうなるんだ」と言って母親をたしなめる夫の愚痴などが聞こえて来て、どこの家庭でも見かけるような日常の風景が流暢に描かれて行く。こうした一連のさり気ないシークエンスが如何に綿密に書き上げられたものであったのかが分かり、アスガー・ファルハディ監督の脚本の緻密さに舌を巻くのは、ある"事件"が起きて映画が変調を遂げる後半以降のことになるのだが。

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リゾート地に到着した一行は、予約していた宿を訪ねるが、管理人から宿の持ち主が帰って来ることになったので1泊しか貸せないと告げられる。どうやらセピデーはその話を事前に電話で聞かされていたのだが、皆にそれを話すと小旅行自体が企画倒れになりそうだったので、現地に来てしまえば何とかなると思い、皆にはその事を伝えていなかったらしい。この"小さな隠し事"が全ての歯車を徐々に狂わせることになるとは、この時点では誰も想像しえない。セピデーは、続けざまに、今度は"小さな嘘"をつく。この一行の中には"新婚さん"がいるので、彼らのために何とかなりませんか、と管理人に食い下がる。実際には、"新婚さん"ではなく、セピデーが仲を取り持とうとしている、ドイツ人女性と離婚したばかりの男性アーマドとセピデーの子どもが通う保育園の先生エリ(タラネ・アリシュスティ)がいるわけだが。

セピデーは粘った挙げ句に、誰も住んでいない一軒家が海岸沿いにあることを知らされる。こうなったらそれを見て、そこに泊まるかどうかを決めようということになり、一行はその一軒家へ。到着すると、そこにはカスピ海に面した海岸に一軒の朽ちかけた家がある。ロシア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、カザフスタン、そして最南端がイランに接するこの海が、果たして"海"なのか"湖"なのかで、隣接する各国の利害が複雑に関係する国際紛争の最中にある、この不穏な海岸に寄せ付ける波の音の大きさを、リゾート地での小冒険に心を踊らせる一行の嬌声が掻き消して行く。「大勢で泊まれば大丈夫さ!」一行は左程真剣に考える様子もなく"ノリ"でこの家に宿泊することを決めて行く。小さい子持ちの夫婦は、「こんな場所では子どもが心配」と本音をこぼすが、他の家族に気を遣って、自分たちの意見を主張しようとはしない。この物語は、紛れもなくイランの首都テヘランからほど近い海岸沿いの地を舞台にしているものだが、こうした仲間内や家族間のコミュニケーションで起きる"小さな隠し事"や"小さな嘘"、そして、"空気を読む"気遣いが生む重苦しさと不寛容は、まさに私たち自身の日常を見るようで、洋の東西を問わない普遍性を獲得している。

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映画の前半は、どこかしら不穏な空気を漂わせながらも、さり気ないタッチでイランの中流階級の群像劇を描いていくが、観客にも登場人物にも秘密裏に進行しつつあった事態が、海で子どもが溺れるという"事件"の発生を機に、一気に表面化する。この"事件"と同時に起きるもうひとつの"失踪事件"の不在の主人公、エリを捉える失踪直前のシークエンスが素晴らしく、永遠のストップモーションのように、彼女の素晴らしい表情を捉えたショットが脳裏に焼き付いて離れない。この2つの"事件"をきっかけに、小集団の仲間意識とそれ故の他者への排他性、伝統的な男女の役割の押しつけ、"親切"と紙一重の"おせっかい"といった人間の社会生活につきものの煩わしい事どもが虫メガネで拡大されたかのようなスケールで登場人物全員の心に重くのしかかっていく。いまや、彼らは、ブニュエルの『皆殺しの天使』(62)の夜会の列席者たちのように、海岸の家の囚われの身となって重苦しい重力に心と身体を支配されている。

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もちろん、ブニュエルよりも、アントニオーニの『情事』(60)により借りがあるのであろう本作のアスガー・ファルハディ監督は、ことによると、『シルビアのいる街で』はアントニオーニの『太陽はひとりぼっち』(62)に借りがあると語ったホセ・ルイス・ゲリン同様、元を辿れば小津に借りがある、つまりは、スタイルの違いこそあれ、キアロスタミの映画遺伝子を確実に受け継いでいるように見える。イラン映画の現在を更新していく新しく骨太な感性は、私たち現代人が、"気遣い"や"空気を読む"といった、社会の構成要員として伝統的な共同体をつつがなく継続するためにつき続ける慢性的な"嘘"と"隠蔽"をアンチ・クライマックスな群像劇の中で描き、なぜ内気にして寡黙な他者"エリ"が失踪しなければならなかったのかを観客に問い掛ける。


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Comment(1)

Posted by PineWood | 2015.06.02

ファルハデイ監督は映画(別離)でも、変容プロセスを堪能する事が出来る。押し付けずに観客自身の想像に委ねる形でー。リハーサルを幾度も繰り返して構築されたジグゾーパズルのようだが、最後のひとこまを埋めるのは観客自身なのだ。夢中になって映画の議論に参加した心地好い疲労感が魅力!無論、登場人物の息を飲む程の美貌という要素、浜辺の景観の美しさなども重要なのだが。

『彼女が消えた浜辺』
英題:ABOUT ELLY

9/11(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町にてロードショー

監督・脚本・プロデューサー・美術・衣装:アスガー・ファルハディ
製作:シマイェ・メヘル
プロデューサー:マームード・ラザウィ
撮影:ホセイン・ジャファリアン
編集:ハイェデェ・サフィヤリ
音楽:アンドレア・バーワー
録音:ハッサン・ザヒデ
ミキシング:モハマド・レザ・デルパック
出演:ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ、シャハブ・ホセイニ、メリッラ・ザレイ

2009年/イラン/116分/カラー/アメリカンビスタ/35ミリ/ステレオ
配給:ロングライド

©2009 simaye Mehr.

『彼女が消えた浜辺』
オフィシャルサイト
http://www.hamabe-movie.jp/
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