『ファウスト』

上原輝樹
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天空の視点から、想像に任せて描いた時のソクーロフは、一際凄まじいばかりのイマジネーションを発揮する。『太陽』(05)の爆撃機が飛び回る空の描写を想起させつつ、19世紀ドイツの森に囲まれた、この世のものとは思えないゴシックロマンな雰囲気を漂わせるオープニングシークエンスと、雷音が轟き、カモメの鳴声、潮騒、アンドレイ・シグレの荘重な調べに鐘の音が重なるサウンドコラージュに、目と耳が釘付けになる。

キャメラは、人体を解剖して"魂"の所在を調べるファウスト博士(ヨハネス・ツアイラー)と助手のワーグナー(ゲオルグ・フリードリヒ)を捉える。解剖した人体から、内臓がずるりと滑り落ちる。血生臭い人体と埃に覆われた部屋の饐えた臭気が漂ってきそうな生々しさを実現しているのは、"東欧のハリウッド"とも言われるプラハのバランドフ・スタジオの技術水準に加えて、ソクーロフが招集した優秀なスタッフたち(『アメリ』(01)、『ハリーポッターと謎のプリンス』(08)、『ダーク・シャドウ』(12)の撮影監督ブリュノ・デルボネル、『エルミタージュ幻想』(02)、『太陽』(05)の美術エレーナ・ジューコワと衣装リディヤ・クリューコワ)の力も大きいだろう。

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解剖の挙句に、高名な学者らしからぬ早急さで、魂など何処にも見つからない!と癇癪を起こすファウスト博士に、魂の在り方を知っているのは神と悪魔だけです、と助手のワーグナーが諭す。無神論者のファウストが神の存在を否定すると、ワーグナーは更に、悪魔は金のある所に住んでいて、広場の近くに住む男が悪魔であると噂されています、と入れ知恵する。死体の処理を埋葬人に任せたファウストは、万物は定めに従い生まれ、そして去る、それなのに人間だけが運命に翻弄される、とひとりごち、苦悩の色を深めるばかりである。

ファウストは、貧乏人相手に黙々と治療を施す父親の元を訪ね、金の無心をするがあえなく断られる。モラリストの父親は、ささやかな幸せを得よ、人に頼らず働くのだと息子を諭す。父親の診療所における、女性患者との関係はほとんどエロティックと言って良い官能性が介在しているが、それこそが、ファウストに欠けているものだ。魂が空虚だから何も感じられないのです、と話す息子に対する父親の答えは、魂は面倒だぞ、そんなものなくても生きていける、という実利的なものだった。父親の答えに不満を覚えたファウストは、それでは物足りない、残念だと言い残し、父親の元を去っていく。

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広場に行くと、そこには、『太陽』の植物園前で見かけたかと思う鶴が優雅に歩いている。色調といい、イマジナリーな展開といい、ソクーロフのフィルモグラフィーの中で今作とのスタイルの連続性を感じさせるのは、やはり『太陽』だ。『モレク神』(99)のヒトラー、『牡羊座 レーニンの肖像』(01)のレーニン、『太陽』(05)の昭和天皇、と実在の人物をイマジナリーに描きながらも、観るものを納得させてきたソクーロフが、今度はゲーテが創り出した文学史上最も悲劇的なキャラクターの一人である"ファウスト"の映画化に、ハリウッドの向こうを張って果敢に挑戦している。

前三作と共通しているのは、主人公がいずれも悲劇的な人物であることだとソクーロフ自身も語っているが、今作における明らかな違いは、映画のテンポの早さとダイアローグの多さ、そして、未だかつてないほどあからさまな猥雑さとけたたましいばかりの喧騒、そして、悲劇と表裏一体の喜劇の摩訶不思議な味わいだろう。一方、本作が原作と大きく違うのは、原作の悪魔メフィストが高利貸マウリツィウス(アンドレイ・アダシンスキー)に変更されているところだ。悪魔のメフィストと契約を結ぶという神話的な話ではなく、金に困ったファウストが金貸しと契約するという話の方が遥かに現代的であるという語り手の判断もあるだろうか。現代におけるマネー経済の悪魔的存在感に適う脚色であるはずだが、そうした説教臭さは、この映画からは一切漂ってこない。

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しかし、19世紀ドイツにおいても金融業を司っていたのがユダヤ人であったことを考えれば、本作で描かれている猥雑さと喧騒は、かつて、ゲーテ少年が幼き日に恐れたユダヤ人ゲットーのそれを、ソクーロフは周到に映像化していることになる。ゲーテは、自伝「詩と真実」の中でユダヤ人街は、狭くて、不潔で、騒がしく、人間や動物の匂い、廃物やゴミの臭いが混じり合い特有の臭気を放つ怖い町だったと記している。佳作『ゲーテの恋 〜君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」〜』(10)をご覧になった方やゲーテの作品に親しんでいる方はお分かりの通り、19世紀にとても恵まれた環境で生まれ育った良家の子息が、ユダヤ人街に対してそのような感覚を抱いたのも無理からぬことと言うべきだろう。

それにしても、本作のけたたましさは尋常ではない。とりわけ、人々の挙げる声のやかましさと街の喧騒、そしてファウストを崇拝し、ストッキングの匂いまで嗅ぐワーグナーのおぞましさ、悩める知識人ファウストは人格者から程遠く、見初めた若い女性マルガレーテ(イゾルダ・ディシャウク)のスカートの中を覗き、なんの断りもなしに首筋に鼻先を近づけ彼女の匂いを嗅ぐ。そして、衣服を脱いだ高利貸マウリツィウスの裸の醜悪なこと!観客の神経を逆撫でするような醜悪さ、猥雑さは、同じロシアの映画作家でも、アレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』(88)やヴィッタリー・カネフスキーの『動くな、死ね、甦れ!』(89)といった怪作の系譜を想起させながらも、彼らの作品とは異なる淫微な官能を孕んでいる。

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しかし、そうした喧噪に暫く耐えていると、恩寵のように美しい森でのファウストとマルガレーテの散歩シーンに出くわし、やはり、これは紛れもないソクーロフの新作なのだと我に返る瞬間を迎えることになる。映画は、ワーグナーやマウリツィウスの喜劇じみたドタバタを交えながらも、悲劇としての本性を露わにして行き、ファウストは、自ら犯した過ちによって、マルガレーテとの仲を引き裂かれることになるだろう。一晩でもマルガレーテとの時間を過ごしたいという欲動を抑えられないファウストは、ついにメフィスト的高利貸マウリツィウスと血の契約を結んでしまう。いよいよこの期に及んで、ファウストという人物の悲劇性が高まるはずなのだが、原作にも宿っている悲喜劇の両面性を映画にも宿らせんとするソクーロフの野心的な挑戦は、如何にもその悲喜劇のバランスが粗野なまま混然一体としていて、観るものを困惑させるばかりである。

そして最後には、ずるりと滑り落ちる内蔵、幻想的な美しさに満ちた洗濯場におけるマウリツィウスの醜悪な裸体、人造人間ホムンクルス、ゾンビめいた異形の者たちといった不可思議な表象を悠に超える驚くべき終幕が、ここに至るまで神経を擦り切らして来た観客を待ち受けているだろう。全く何というエンディングだろうか。道徳や倫理、理性と知性、そうした全ての善き"人間性"とされるものを超える地平に忽然と現れる狂った生の歓び!このエンディングの為に、全ての悲喜劇の躁鬱的喧騒があったのではないかと思わずにはいられない、その映画が終わった今、何と恐ろしくも晴々とした気分で、私たちの日常生活が再開しようとしていることか!


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『ファウスト』
原題:Faust

6月2日(土)よりシネスイッチ銀座にてロードショー!
 
監督・脚本:アレクサンドル・ソクーロフ
台本:ユーリー・アラボフ
共同脚本:マリーナ・コレノワ
撮影監督:ブリュノ・デルボネル
美術:エレーナ・ジューコワ
衣装:リディヤ・クリューコワ
編集:イェルク・ハウシルト
音楽・製作:アンドレイ・シグレ
出演:ヨハネス・ツァイラー、アントン・アダシンスキー、イゾルダ・ディシャウク、ゲオルク・フリードリヒ、ハンナ・シグラ

© 2011 Proline-Film,Stiftung fur Film-und Medienforderung, St.Petersburg,Filmforderung, Russland Alle Rechte sind geschutzt

2011年/ロシア/140分/35mm/ドルビーデジタル/ヴィスタ
配給:セテラ・インターナショナル

『ファウスト』
オフィシャルサイト
http://www.cetera.co.jp/faust/
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