OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

対談:フィリップ・クローデル×高橋啓(翻訳家)

@日仏学院 2009年10月6日19時

2009年10月6日、東京日仏学院で行われたフィリップ・クローデル監督と翻訳者高橋啓氏による対談を掲載。小説家として確固たる地位を確立しているクローデルが、初監督作品とは思えない出来映えの映画『ずっとあなたを愛してる』について、誠実に全てを語った。当日のティーチインは、高橋氏がクローデルのエッセイ『夢と現実の小さな工場』(一種のメイキング・オブ『ずっとあなたを愛してる』)から、最も興味深いと思われるテーマを抜粋し、それについて監督に質問を投げかけるという形で進められた。(敬称略)
2010.1.5 update
素材提供:東京日仏学院
同時通訳:福崎裕子、高村伸子
採録原稿作成:OUTSIDE IN TOKYO
採録監修:福崎裕子

1. 「不在」「自伝」というテーマについて

1  |  2  |  3

高橋:まず「absence/不在」というテーマについて。思い出したのがabsenceを主題にした映画で、多分フランス映画の中で最も有名な映画があるとすれば、マルグリット・デュラスが脚本を書いて、アンリ・コルピが監督をした『かくも長き不在(Une aussi longue absence)』(60)というのがあり、私はその映画を連想しましたが、その映画との絡みであるとか、補足するようなことがあればお話しして頂きたいです。
フィリップ・クローデル:「不在」というテーマに関して、確かにマルグリット・デュラスの『かくも長き不在』というタイトルが私の映画より先に存在していました。素晴らしいフランス語のタイトルだと思います。けれどもシナリオを書き、映画を撮っていた間、そのことは全く考えなかったと告白しなければなりません。デュラスは、私の個人的なパンテオンの中で高い地位にあるのですが。私にとって重要な作家であり、彼女の作品は沢山読んでいます。打ち明けて言えば、私はデュラスの映画よりも文学作品の方が好きです。
不在というテーマは、私が今までに書いた多くの本の中で中心的なテーマになっています。愛する存在を失うことによる不在です。例えば、『灰色の魂』は妻をなくした人の話です。もう一つの作品、日本語には訳されていませんが、『私は捨てる』の語り手も、妻に先立たれた人物です。私の最初の小説『忘却のムーズ川』もやはり喪の仕事を語っています。他の本にしても同様で、さらに大きな喪失、不在もあります。『リンさんの小さな子』の主人公は、家族全員を亡くしています。そして彼は、戦争で壊滅状態にされたあるアジアの国から逃げ出さすことを余儀なくされます。
従って映画に見られた不在というテーマは、いわば私に取り憑いているテーマです。実際の人生の中でも、不在は私をさいなんでおり、それが小説や映画の中で具体的になって出てくるのです。
それは私が、愛する人を失ってしまうという、人間にはつきものの悲劇について常に考えているからです。人生のある時点で、親を亡くしたり、あるいは配偶者を亡くしたり、更に悲劇的に子供を亡くすことがあります。そうした時に、そうした不在と共にどのようにして生き続けていくのか、どのようにして不在の人々と共にいられるのか、不在の人々は本当に不在なのか、彼らの消滅にも関わらずその人々が私たちの中に存在し続けるように出来るのか、そうしたことがこの映画のストーリーの中心的な要素になっています。この女性(ジュリエット)は自分の子供を亡くしてしまった後、世界から自分を不在にすることを決意するのです。ジュリエットは世界の中で生きて行くことを拒否します。そして言わば隔たりの地理学を選びます。つまり監獄に入り、世界から遠ざかることを選ぶのです。監獄は本当の意味で地理的な場所ではありません。マージナルな場所であり、本当に生きている人々の空間ではない。彼女はそこに引きこもり、喪の仕事を続けようとします。彼女は喪を終わらせたくないのです。
これは私にとって、子供時代から私に影響を与えていたテーマを映画的に考察する方法でした。子供にとって一番怖いことは、突然両親が亡くなってしまうことです。多くの子供が両親の死を想像し、頭の中で脚本を書くでしょう。幸いなことに大半の子供には実際にはそのようなことは起きませんが、そういったことを想像して、自分を怖がらせるのを好む傾向がある。私は子供ではなくなってもそれを続け、愛する人の死を実体験していないにもかかわらず、それを想像して自分自身に恐怖心を与え続けているのです。
また、私は死者たちと奇妙な関係を持っています。今年の夏、父が亡くなりました。奇妙なことに、私にはいまだに本当に父が亡くなったという実感がありません。どこか前よりは行きにくい場所に父がいる、本当に会いに行ったり電話をしたりできないような場所で父が生きているような気がしています。つまり死者の場ではなく、私の世界の一部であるどこかに今も父がいると思っているのです。そういう風にして、私の生活の中で本当の意味の不在と共に何とかやっていこう、和解をしようとしています。
高橋:次に「自伝」というテーマに移っていきたいと思います。まずこの映画に出てくるミシェルという大学教授がいますが、かつて刑務所で読み書きを教えていたことがあるという設定になっていて、そのミシェルがジュリエットの良き理解者にだんだんなっていくわけです。クローデルさんもかつて十何年か、かなりの長い年数、刑務所で囚人に読み書きを教えていたという体験があるということと、もう一つ、映画の中でプチ・リスという役で出ていた女の子が現実にクローデルさんが育てている娘さんで、2つの例を挙げるだけでもクローデルさんご自身の自伝的要素が込められていて、小説よりも映画の方に自伝的要素が色濃く出てくるというのがどうしてなのか、お話しして頂ければと思うのですが。
クローデル:そうですね、プチ・リスを演じている子供は私の娘です。リズ・セギュールは芸名です。リズは彼女が本当に好きな名前で、セギュールの方は彼女の好きな作家の名前から取りました。セギュール伯爵夫人という子供向けの本を沢山書いている19世紀の作家です。
自伝的要素が映画に出ているのは、確かに驚くべきことでしょう。今まで、本の中で自分の人生を取り扱おうと思ったことはいちどもありませんでした。なぜならば、私の人生は他の人にとって面白いものだとは思わないからです。自分の人生は私にとっては面白いものでも、読者をひきつけるような小説の素材ではない。本を書いているとき、私はむしろ想像の領域に興味を持っています。自分をここではない場所に連れて行くようなストーリーに興味があり、それが読者も別の場所に連れて行ってくれることを望みます。
逆に奇妙なことに、計画したわけでも望んだわけでもないのに、この映画の脚本を書いていた時、そして特に書き終わった時に、どれほど自伝的な要素が入っているかに気付き驚きました。刑務所での経験や、養女を迎えた夫婦など、その他にも色々なエピソード的な要素があります。ミシェルが美術館で絵を見せているシーンをおぼえていらっしゃるでしょうか。ジュリエットにエミール・フリアン(Emile Friant)というナンシーの郷土画家の小さな絵を見せます。雪景色にナンシーの女性が描かれている絵で、ミシェルは、初めてこの絵を見た時、初恋の女性に似ているのでとても驚いたと言います。これは私自身の実話です。また撮影をした様々な場所も私の実人生とつながっている場所です。
ですからこの映画は、秩序なく星をちりばめたような形で、一種の自伝を描いています。ただしそこには、いわば目配せを送るレファレンス以上の特別な意味がある訳ではありません。私は普通インタビューでも私生活については語らず、テレビ出演も断わる秘密主義の人間なのですが、映画という一番ものを見せる芸術表現で自分をさらけ出している。今お話したような自分の人生の断片を暴露しています。けれども同時にそれらの断片は解釈し直し、演じられたものなのです。またそれらの自伝的要素が、映画全体の意味を作り出すために働いていることが重要です。単に目配せを送るために配置されたのではないのです。私はこのような自伝的要素の糸を、より空想的な糸とともに織り上げて、ジュリエットと、その周囲の人々との物語を語りたいと考えたのです。したがって自伝的要素はエピソード的に取り入れたのではなく、ひとつの意味をもつ人間的な物語を構成するために使われています。
高橋:配給会社のロングライドさんから依頼されてこのパンプレットに文章を書いたのですが、そのタイトルにちょっと僭越ながら、小説家が本来書くべき小説としての映画作品というというタイトルをつけたのです。つまり何を言いたかったかというと本当はクローデルさんは、こういう映画を小説で書きたかったのではないのかなっていう印象を僕は映画を観て感じたのです。それについてはいかがでしょうか?
クローデル:おっしゃることはとても良く分かります。実生活での私を知っている人たちは、私自身が人生を楽しんでいて笑ったりお酒を飲んだり、快い時間を過ごすのが好きだということを知っています。ですから私が書いている小説世界と現実の私とは随分違います。私の小説は悲劇的な作品ばかりですし、ある意味では形而上学的な作品であり、実存の暗い部分、人間の暗い部分をさぐるような作品です。この二つの側面は、それぞれお互いの説明になるのではないでしょうか。人生ではこういう風だから書くものがこういう風になるのではないかと思います。私自身が暗い人間で、いつも悲劇的に自分の実存のことを考えているとしたら、もっと滑稽な本を書くでしょう。これは同じ人の表と裏です。つまり気が滅入るような話をして友達を退屈させたくない。人間の暗い部分をさぐるためには、文学を使う方を選びます。
果たして映画の方が小説よりも実際の私に似ているか、映画は私が書かなかった小説であるべきなのか。私はそうは思いません。結局私がすることは全てそれぞれが、一つの要素、一つのポートレートなのでしょう。分裂してはいるけれど、実際には私によく似ているポートレートを描いていると言っていいでしょう。
とはいえ、このストーリーを小説にすることは私には不可能でした。この映画のストーリーは私の頭の中で映画のために、映画とともに生まれて来たのです。このストーリーは、ある女優を使いたい、ある種の照明を使いたい、ある種の装置を使いたい、ある種の場所で撮影をしたい、そうした欲望から生まれました。そして音についても衣装についてもフレーミングについても同じような明確な考察をしています。沈黙についても同じです。この映画はかなり沈黙を働かせる作品です。私は言葉なしで、言葉の外での表現をしたかったのです。それは小説では難しい、不可能なことです。映画のお蔭で私は、文学では不可能な、あるクリエーションの道を延ばしていくことができるのです。同様に、文学によって、映画的手段では自分が語れないことを語ることができます。


『ずっとあなたを愛してる』
原題:Il y a longtemps que je t'aime

12月26日(土)より銀座テアトルシネマ他全国順次公開

監督・脚本・台詞:フィリップ・クローデル
製作代表:イヴ・マリミオン
エグゼクティブ・プロデューサー:シルヴェストル・ガリノ
製作補:アルフレッド・ユルメール
音楽:ジャン=ルイ・オベール
撮影監督:ジェローム・アルメラ
助監督:ジュリアン・ジディ
衣装:ジャクリーヌ・ブシャール
美術:サミュエル・デオール
録音:ピエール・ルノワール、ステファン・ブランクール
出演:クリスティン・スコット・トーマス、エルザ・ジルベルスタイン、セルジュ・アザナヴィシウス、ロラン・グレヴィル、フレデリック・ピエロ、リズ・セギュール、ジャン=クロード・アルノー、ムス・ズエリ、リリー=ローズ

2008年/フランス・ドイツ合作/117分/35mm/1:1.85/ドルビーデジタル
c 2008 UGC YM - UGC IMAGES - FRANCE 3 CINEMA - INTEGRAL FILM
配給:ロングライド

『ずっとあなたを愛してる』
オフィシャルサイト
http://www.zutto-movie.jp/


『ずっとあなたを愛してる』
 レビュー
1  |  2  |  3