OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

対談:フィリップ・クローデル×高橋啓(翻訳家)

2. 「恥」「家」「小説」というテーマについて

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高橋:ありがとうございます。次の項目に移っていきます。「honte/恥」というテーマについてです。クローデルさんは自分がこの映画業界の出身でもないのに映画をつくるチャンスに恵まれていることに対して、恥という意識を抱いたと。まわりの人たちはそんなことは違うという風に説得してくれたにも関わらず、今でもその恥の思いがあると言う風に書かれています。
クローデル:私がここで言いたかったことは、アーティスト、映画作家で才能があるのに映画がつくれない、もはや映画がつくれなくなっている人が多数存在しているということです。小説を書くことと映画をつくることには大きな違いがあります。小説を書くときには自分自身しか必要ありません。ペンかパソコン、それから自分の時間とエネルギーがあればいいのです。プロデューサーも、俳優もテクニシャンもいりません。そして予算も必要としません。映画を作ろうとすると、それはただちに巨大な企てになります。時間をかけて、いいアイデアだと人々を説得しなければならない。アイデアが受け入れられると、今度はその人々が資金を提供する人々を説得しなければなりません。それからスタッフや俳優を選び、彼らを説得しなければなりません。さらに、スタッフをひきいて、俳優達を演出するエネルギーが必要になります。これは長く、とてもお金のかかるプロセスです。しかも映画が公開され残念ながら成功をおさめない場合、監督はもう次の作品が作れなくなります。小説はそうではありません。たとえ小説が成功しなくても出版社が作家を信頼していれば、次の作品を出版します。なぜならば本を出すにはそれほどお金がかからないからです。
このようにして多くの映画作家はアイデアがあるのに、もはや映画がつくれなくなっています。単に前作が商業的に成功しなかったというだけで、クリエーションが不可能になったクリエーターが映画の世界には多数います。そうしたことは芸術の世界では珍しいことです。写真家は写真を撮り続けられる、音楽家は作曲が続けられる、画家も絵を描き続けられます。すでに言ったように、作家も書き続けることができます。ところが映画作家は、映画があまりにもお金がかかる芸術であるため、本当に人々の信頼やお金がないと映画が作れないのです。映画史の中には残念ながら、偉大な映画作家でも映画が撮れなくなった例が多数あります。例えばオーソン・ウエルズ、フランスではジャック・タチがそうです。プロデューサー達が資金を提供しなくなり、映画が作れなくなったのです。
確かに私の場合、映画監督をこころざしたのがとても遅いのに、比較的容易に自分の作品を作ることができました。比較的容易というのは、あまり色々な人にお願いしなくても映画が撮れたという意味です。すぐに人々が信頼を寄せてくれ、わりあい簡単に準備が整いました。こうして、私はいわば少し他の人の分け前を盗み取ったような気がするのです。おそらく私以上に才能がある作家達、私以上に映画制作に値する人々、とりわけ私以上に映画制作を求めていた人々の分を取ってしまったような気がします。だからこそ私は「恥」と言ったのです。自分が受け取ったものをもらうに値しているかどうか疑ってしまうということです。
しかしその感情は映画の枠組みを超えるものです。私は今でもたえず私の本が成功したことに対して居心地の悪い思いをしています。自分にそれだけの価値がないような気がするのです。人生の他のことでも同じです。不幸な人が多いのに、自分が幸せでいいのだろうかと疑います。そうしたことの分析は容易でしょう。フランスでは、いずれにしろヨーロッパでは、一種のキリスト教的な罪悪感があります。それは古典的な感情で、少し私の中ではそれが激化しているのかもしれませんが、後ろめたさが存在しているのです。おそらく私の教育からくるものでしょう。honteという言葉ですが、確かに、悪い行為をした時にあてはまります。けれども、子供は恥ずかしいと思うと、顔が真っ赤になりますよね。私も全てのことに対して赤面する思いです。ですから失敗ばかりするようになれば、「恥」の感情を持たなくなるのではないでしょうか。
高橋:「家」というテーマに移りたいと思います。これに関してはまず具体的に、映画に出てくるレアとリュックの家は非常に印象的な家なのですが、あれはナンシーの町の中で見つけたんですか?
クローデル:そうです。スタジオではなくロケです。実際にあった家です。とても大きな家だったので、全部を使って撮影したわけではありません。空(から)だったその家の一部に家具を入れ、内装をして映画に使いました。
高橋:小説と違って映画の場合は、こういう家を見つけるかどうかが、成功するかしないか、非常に説得力を持つか持たないかの大きな分かれ道になると思うんですよね。俳優さんがどれだけ熱演しても例えばこういうような家が無ければ、もしかしたら効果は半分になっていたかもしれない。それぐらい非常に印象的です。
クローデル:確かにセットを作るという方法もあったでしょう。いくつかロケハンで見た家は平凡なものばかりでした。ところがあの家を見た時に、建築的にとても奇妙な要素、普通のフランスの家にはないものがあるのに気付きました。大きな玄関ホールがあり、2階へほとんど一周するように続く階段があることです。フランスの刑務所の渡り廊下に似ています。昔の刑務所にはこのように各階を一周できる廊下があったのです。それを見た時、とてもおもしろいと思い、主人公がこの家の中に入ってくるところを想像しました。刑務所を出て初めて妹の家に入り、何を彼女が見つけるか。刑務所のイメージがそこにまたあるわけです。今までいた刑務所を思い出させるような要素がある。一種の呪いのようなものに彼女はつきまとわれているのです。だからこそこの家を見るや否や、絶対にここで撮影しなくてはならないと思いました。
高橋:あの家が牢屋の内部のイメージを思い出させたという、観客としてはあの家を見て牢屋は連想しないんですが、このように言われると確かにこの家には解放された感じと閉鎖された感じが両方あわさっていて、まあよくこんな家があったもんだなという風に思いました。次のテーマ「小説」ですが、これは私、読んでいて衝撃的でした。というのは、私が書いたパンフレットには、この映画が感動的なのはクローデルさんが恥というようなさっきの文章もあるように、プロの専門の映画監督が映画をつくれないでいる中で、自分がある意味幸運にもそんなに苦労しないで映画をつくれたという恥の思いがあるが故に、もしかするとこれが最初で最後の映画になるかもしれないという思いがあって、全精力をこの映画の製作に傾注したからこそこんないい映画になったんじゃないかという風に思って、そんなようなことをこのパンフレットに書いたんですが、これを読んだら逆にこの映画を撮ってる時に校正刷りを読んで『ブロデックの報告書』が私の最後の小説になるかもしれないという思いでゲラに赤入れをしていたというのを読んで、これで小説が最後になってしまっては私も翻訳家として後の仕事がなくなるし困るなという、それでびっくりしたこともあるんですが(笑)、私が抱いた感想と全く正反対でむしろ書き終えたばかりの小説が最後になるかもしれないと思うほど、この映画に対する思い入れが強かったんだなということが分かって少しビックリしました。ちょっと質問にも何にもなってないのですが、また小説はお書きになるわけですね?
クローデル:実際、いま引用なさった文章は、正直に書いたものです。この小さな本を書いた時には本当にそういう気持ちだったのです。この映画の編集を終わろうとしている時でした。その時には、確かに、何と言えばいいのでしょうか、この文章を書きながら、小説の方は三ヵ月前に書き終わった本でしたけれども、数年前から自分が定めていた小説世界を全て探求し終わったような気がしたのです。その小説世界には、すでに語ったこと以外にはもう何も言うことがないように思われました。『灰色の魂』、『リンさんの小さな子』やその前に書いた本、そして『ブロデックの報告書』で一つの何かが終わった、完成したという気持ちがしたのです。階段の最後の一段を上ったような気がしたのです。この時は本当に正直な気持ちでした。特に私がしたくないと思ったのは、既に書いた本と同じようなことを書いてしまうことです。作家の中には、既に書いたのと同じような本を書いている人が多数います。タイトルが変わっても、いつも同じ本で、もはや新しい糧を与えてくれない人たちです。それを私は避けたかったのです。
それから時間がたち、疲労もまた消えました。撮影は極めて疲れる仕事です、本を書くよりも、小説を書くよりも疲れる仕事です。したがって映画のあと、私は疲労困憊していました。その後、時間がたち、再びストーリーへの欲望がわいてきました。また書くことにある自由への欲望もよみがえってきました。さきほどお話した自由です。確かに小説を書くことはどこででも出来ます。他人を誰も必要としません。好きな時にやめられるし、また翌日でもいいし、六ヵ月後、二年後に再開してもいいのです。なぜ書かないのかと責める人は誰もいいません。ところが映画の場合、映画作りのプロセスが一度始まると、やめるとは言えないのです。数ヶ月休むとは絶対に言えません。俳優やテクニシャンらに対して、来年続きをやろうとは絶対に言えません。この小説の巨大な自由、動きつつある言語の自由、それが再び私のドアを叩きにやってきました。そのために、新しい小説を今また書いているところです。それが好きだから、自分に必要だから、これが私にとって心から重要な自分の表現の仕方だからです。幸いなことにまだ十分に探求し終わっていない空間、自分が探求したい空間が残っています。私の幸運は、小説が書けるだけでなく、次の映画も作れる、次の劇作品、戯曲も書ける、異なる芸術表現の手段を持っていることです。皆がそうではありません。今のところ様々な芸術表現手段を持っているので、その状態が続くかぎりそれを活用していくつもりです。
高橋:エネルギーが戻ってきて今、新たな小説を書いているところだということで、必ずしも私の為にじゃなくて世界中のフィリップ・クローデルのファンの為に祝福したいと思います。私からの質問はこれでおしまいにしたいと思いますが、私が用意したものと関係のない小説についての質問でもいいですし、観たばかりの映画についてでもいいですし、何かあれば自由に発言していただきたいと思いますけど。

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