アヴァンギャルド映画の女神、マヤ・デレン特集上映



ジャン・コクトー、ルイス・ブニュエルと並び称される「アヴァンギャルド映画の女神」マヤ・デレン。彼女の数々の神話に包まれた人生を紐解く傑作ドキュメンタリー『鏡の中のマヤ・デレン』が公開される。同時に彼女の幻の映画作品全6作も同時上映!

革命の年にロシアで生まれ5歳でアメリカに渡った少女は、26歳で以後のビジュアル・アート史に決定的な影響を与える傑作『午後の網目』を発表する。その作品に主演し、謎めいた神秘的な容姿を強烈に人々に焼き付けたマヤ・デレン。やがて彼女はヴードゥー教の研究に傾倒し、ハイチで芸術の女神として崇められるまでになる。ダンサー、文化人類学者、巫女、映画作家。多様な活動でアンディ・ウォーホルやジョナス・メカスといったニューヨークのアーティストたちの注目の的であり、彼女が発散する創造的なエネルギーは、マルセル・ドゥシャンやアナイス・ニンも瞠目した。1961年、44歳の若さでこの世を去った彼女の死因は、麻薬の過剰摂取ともヴードゥーの呪いとも噂された。彼女の遺灰は17歳年下の夫の手によって東京湾に撒かれている。彼女は6本の映画と1つの著作によって、今でも映画史上に輝く女神として様々なアーティストたちにインスピレーションを与えて続けている。
2009.12.28 update
マヤ・デレン(Maya Deren, 1917-1961)
映画作家、振付家、ダンサー、詩人、人類学者。
1917年、ロシア革命の年にキエフの裕福なユダヤ人精神科医の元に生まれる。本名はエレアノーラ・デレンコフスカヤ。父親は医師としてトロツキーの元で働いていたが、やがて激化するユダヤ人迫害に追われ、1922年マヤが9歳の時にアメリカに移住する。大学ではジャーナリズムや政治学を専攻していたが、黒人舞踊家キャサリン・ダンハムと出会い、彼女の興味はダンスと人類学へ向かう。やがてマヤは巡業中のアメリカ西海岸でチェコからの亡命中の映像作家アレクサンダー・ハミッドと出会い結婚。翌年の1943年、マヤが26歳の時に二人の共同で映画史上に残る『午後の網目』を制作する。この作品は1947年のカンヌ映画祭で実験部門のグランプリを獲得し、マヤの評価を決定的なものとする。数本の映画作品を制作後、マヤはハイチへヴードゥー教の研究に旅立ち、成果を一冊の本「聖なる騎士たち」にまとめている。マヤは44歳に脳溢血で死亡するまで6本の映画作品と1冊の著作を残し、現在にいたるまであらゆるアーティストに影響を与えている。
ドキュメンタリー映画『鏡の中のマヤ・デレン』
シアター・イメージフォーラムにて1月9日(土)よりロードショー

http://www.imageforum.co.jp/deren/

【同時レイトショー上映】
マヤ・デレン全映画作品(7本 合計:87分)
『午後の網目』(14分/1943年)、『陸地にて』(15分/1944年)、『カメラのための振付けの研究』(4分/1945年)、『変形された時間での儀礼』(15分/1946年)、『暴力についての瞑想』(12分/1948年)、『夜の深み』(15分/1952~59年)
特別参考上映:『魔女のゆりかご(未完)』(12分/1944年)

トークショー開催
1月13日(水)18:45の回上映前 港千尋(写真家・写真評論家)
1月15日(金)18:45の回上映前 石井達郎(舞踏評論家)
1月22日(金)18:45の回上映前 小池一子(クリエイティブ・ディレクター)
マヤ・デレン全映画作品
写真クレジット:(C)2001 Navigator Film

『陸地にて』より
『陸地にて』より
『午後の網目』 Meshes of the Afternoon
1943年/14分/共同監督/アレクサンダー・ハミッド、撮影/アレクサンダー・ハミッド、マヤ・デレン、音楽/テイジ・イトー(1959年に追加)、出演/マヤ・デレン、アレクサンダー・ハミッド
1947年カンヌ映画祭実験部門グランプリ受賞。

道に落ちている花一輪。少女の影がそれを拾い、やがて少女は玄関の扉を開けて家に入る。部屋の中にはパン切りナイフや受話器の外れた電話。少女は階段を上る。風にたなびくカーテンと空転するレコード。少女は椅子に座り目を閉じる。その傍らに同じ少女が立ち、窓の外を眺める。夢のような景色...。デレンは夢を媒介にしながら内面の探求に向かうが、同時に映画そのものの構造をも追求した傑作。
『陸地にて』 At Land
1944年/15分/サイレント/撮影:アレクサンダー・ハミッド、ヘラ・ハイマン、出演:マヤ・デレン、アレクサンダー・ハミッド、ジョン・ケージ、ウォレス・パットナム、パーカー・タイラー、アナイス・ニンほか

海岸に打ち寄せられ横たわるデレンの身体。流木の間を這い上がってゆくと、そこには正装をした紳士淑女たちがチェスに興じている。官能的、触覚的作品。
『カメラのための振付けの研究』 A Study in Choreography for Camera
1945年/4分/サイレント/出演:タリー・ビーティ

ダンサーが森、アパート、美術館の中と、様々な空間の中を踊る。緻密に計算されたカメラの動き、ダンサーとカメラのコラボレーションとしての映画。
『変形された時間での儀礼』 Ritual in Transfigured Time
1946年/15分/サイレント/撮影:ヘラ・ハイマン、振付け:フランク・ウェストブルック、出演:リタ・クリスチアニ、ジャネット・コリンズ、アナイス・ニン、マヤ・デレンほか

アパートの部屋を行き来する女。部屋に現れる別の女。日常的な所作とダンサーの動きによる儀式。カメラによって創造される儀式的空間と時間。
『暴力についての瞑想』 Meditation on Violence
1948年/12分/音楽:中国の笛とハイチの太鼓、変調:マヤ・デレン、出演:チャオ・リ・チ

室内の白い壁の前で太極拳を舞う上半身裸の中国武術の演者。野外で衣装を着け、剣を持って踊る。そして再び室内へ。陰と陽の校正が重視されている。
『夜の深み』 The Very Eye of Night
1952~59年/15分/撮影:アーネスト・ネカネン、録音:ルイス&ビビ・バロン、音楽:テイジ・イトー、助監督:ハリソン・スター、出演:アンソニー・チューダー指導下のメトロポリタン・オペラ・バレエ学校の生徒

星空に男女のダンサーの群舞がネガで重ねられる。ダンスする男女の白い影が夜空の銀河のごとく浮かびながら戯れる。
『鏡の中のマヤ・デレン』
監督・脚本:マルティナ・クドゥラーチェク
104分/2001年/カラー/デジタル/オーストリア・スイス・ドイツ

真に無意識的な夢の作品だ。ある点では、初期のシュルレアリズム作品より優れている。
アナイス・ニン

マヤ・デレンはケネス・アンガー、スタン・ブラッケイジ、デイヴィッド・リンチといった作家すべての源流である。
テート・モダン ホームページより

デレンが生み出した意志の強い女性のイメージは、現代にも受け継がれている。彼女のイメージを流用したポップ・スターはマドンナをはじめ枚挙にいとまがない。
ジョン・ホーバーマン『ヴィレッジ・ヴォイス』
音楽:ジョン・ゾーン
1956年生まれ。1980年代以降のアメリカ前衛音楽を代表するミュージシャン。フリー・ジャズ、アヴァンギャルド音楽など特定のジャンルに収まらない多様な活動を精力的に続けている。自主レーベルTZADIKを立ち上げるなど、世界のミュージシャンとの交流や新進アーティストの紹介も行っている。

主な出演者:
ミリアム・アーシャム

1920年ニューヨーク生まれ。映画編集者として多くのドキュメンタリー作品を手がける。アレクサンダー・ハミッドを含む多くのアメリカまたはヨーロッパの監督と仕事をする。1940年代から50年代を通してマヤ・デレンと個人的に親しく、撮影の手伝いもしている。

スタン・ブラッケージ
1933年米国生まれ。ブラッケージはアメリカのインディペンデント映画において最も影響が大きい存在である。1952年から400本を越える作品を制作し、『ドッグ・スター・マン』(1964年)、『自分の目で見る行為』(1971年)など数々の代表作がある。本作でもブラッケージ自身が述べているが、2000年にマヤ・デレンに捧げる『Water for Maya』を制作している。1981年アメリカン・フィルム・インスティトゥート(AFI)が設立したマヤ・デレン インディペンデント映画賞を1986年に受賞。映像に関する書籍もいくつか出版している。2003年没。

チャオリー・チ
1929年生まれ。アジア舞踊を学ぶ。デレンの『暴力についての瞑想』に出演。以後人気テレビドラマ『ファルコン・クレスト』(1981年)、『ドラゴン ブルース・リー物語』(1993年)、『ゴーストハンターズ』(1986年)、『タオの伝説/異次元のファンタジー』(1997年)などの映画に出演している。

リタ・クリスティアーニ
1923年トリニダード生まれ。キャサリン・ダンハムのカンパニーのダンサーでもあり、デレンとの友人であった。『変形された時間の儀式』に出演。ダンサーとして『モロッコへの道』(1942年)、『運命の饗宴』(1942年)といったハリウッド作品にも登場している。50年代にはシカゴで看護士とになった。

ジャン=レオン・デスティネ
1930年ハイチ生まれ。ハイチの芸術の海外への紹介に生涯を捧げた。1946年にキャサリン・ダンハム・ダンスカンパニーに入団し、ダンスを学ぶ。その頃にマヤ・デレンと出会っている。1949年には自らのダンスカンパニーを設立し、以後は振付家や後進の育成者として活動を続けている。

キャサリン・ダンハム
1909年米国シカゴ生まれ。ダンスと社会人類学をシカゴ大学で学び、1936年に西インド諸島へ渡り以後ダンスと人類学を複合的に研究することになる。やがて彼女はキャサリン・ダンハム・ダンスカンパニーを設立し、北中米やヨーロッパをツアーする。1963年にはメトロポリタン劇場で黒人初の振付家に就任する。その他にもハイチ難民の支援など人道的支援活動でも評価され数多くの賞を受賞している。

グレアム・ファーガソン
カナダ生まれの映画プロデューサー・監督。巨大スクリーンでの上映設備IMAXの共同開発者。主な監督・製作作品に『ディスティニー・イン・スペース』(監督/2001年)、『ブループラネット』(製作/1990年)

アレクサンダー・ハミッド
1907年リンツ、オーストリア生まれ。プラハで青年期まで過ごし、1930年に初めての実験映画AIMLESS WALKを制作する。ナチのチェコ侵攻を逃れアメリカに亡命。エレアノーラ・デレンコフスカヤと出会い1942年に結婚。彼女にマヤと名付けた。1943年にはデレンと『午後の網目』を共同演出する。1964年には共同監督したTO BE ALIVE!でアカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞する。その後IMAXの初期作品をTo Fly!(1968年)などを手がける。

ジュディス・マリーナ
1926年ドイツ生まれ。ナチの迫害を逃れ両親とともにアメリカへ渡る。1946年に劇団リビング・シアターを設立。40年代のアヴァンギャルド運動と密接に関わっていた。50年代に講演の内容の政治色が非常に強くなり、劇団の共同設立者であり夫のジュリアン・ベックと共に非暴力抗議運動によって当局に収監される。俳優としてはシドニー・ルメット監督『狼たちの午後』(1975年)、バリー・ソネンフェルド監督『アダムス・ファミリー』(1991年)、ポール・マザースキー監督『敵、ある愛の物語』(1989年)、『レナードの朝』(1990年)などに出演。

ジョナス・メカス
1922年リトアニア生まれ。第二次世界大戦時には強制収容所に捕われるが脱走、1949年米国に渡りニューヨークに移り住む。1951年『フィルム・カルチャー』誌創刊。1958年から『ヴィレッジ・ヴォイス』誌に映画のコラムを書き始める。アメリカのインディペンデント映画において最も重要な人物の一人であり、『リトアニアへの旅の追憶』(1972年)、『ウォールデン』(1988年)などいくつもの名作を16ミリのボレックス・カメラで制作している。1970年にはインディペンデント映画専門の上映館でありアーカイブであるアンソロジー・フィルム・アーカイブスを設立。映画館のホール名はマヤ・デレン・シアターと名付けられている。

アンドレ・ピエール
1942年ハイチ、ポルトープランス生まれ。ハイチの美術の巨匠であり、ヴードゥーの司祭である。ハイチの画家ヘクトール・イポリット(生:1894年~没:1948年)の精神と芸術を継ぐものとされている。作品の多くはヴードゥー寺院の装飾として使われたもので多くが既に破壊されてしまっており、キャンヴァスに書いた作品のみがハイチ芸術の貴重な歴史を伝えている。

アモス・ヴォーゲル
1921年ウィーン、オーストリア生まれ。ナチの迫害を逃れアメリカに渡り。1947年に上映団体シネマ16フィルム・ソサエティー、1963年にニューヨーク映画祭をスタートさせる。1947年の出会いからその死までデレンとは親密な交流があった。

マルシア・ヴォーゲル
1921年ニューヨーク生まれ。1942年アモス・ヴォーゲルと出会い結婚。社会学者でシネマ16の共同設立者。

テイジ・イトー
1935年東京生まれ。6歳で米国に渡る。幼少の頃からアジア、アフリカ、特にカリブ海のパーカッションに興味を持つ。1955年にハイチへマヤ・デレンと渡り、ハイチのドラムを学ぶ。1960年にデレンと結婚。彼女の『午後の網目』と『夜の深み』の音楽を付けている。日本の古楽器などを作曲に反映させるなど実験音楽のパイオニアとして評価されている。1982年ハイチにて死去。


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