第19回 カイエ・デュ・シネマ週間「シャンタル・アケルマン追悼特集」



「イマージュと、それを見つめる者の間は、つねに平等であってほしい」シャンタル・アケルマン

1975年、シャンタル・アケルマンは傑作『ブリュッセル1080、コメル23番街、ジャンヌ・ディエルマン』を撮り、映画に革命を起こしました。その後も、短編、長編、フィクション、ドキュメンタリー、実験的映画、文学の脚色など、様々なジャンルで新しい映画の形態を探求し続けました。アケルマンは現代映画の可能性を率先して見出し、ジム・ジャームッシュ、ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ、アピチャッポン・ウィーラセクタン、ミヒャエル・ハネケらも彼女から影響を受けています。
2015年10月に惜しくもこの世を去ったシャンタル・アケルマンを追悼すべく、「第19回カイエ・デュ・シネマ週間」にて特集を行います。また第8回恵比寿映像祭では新作の『No Home Movie』が日本プレミア上映されます。「カイエ・デュ・シネマ」ニューヨーク特派員で、シャンタル・アケルマンの映画をこれまでも紹介してきたニコラ・エリオットの講演会も予定しています。
2016.1.28 update
Vivre sa vie 自分の人生を生きる

生涯を通してともにあるにも関わらず、その人たちの才能を忘れてしまうことがときにある。最新作----それが映画、小説であれ----によって彼らの近況を受け取ることが習慣となってしまい、作品群全体の豊かさを見失ってしまい、彼らが亡くなったときに、その欠落を埋めるため、これまで与えられてきたものすべてへと立ち戻ろうとする。2015年10月にシャンタル・アケルマンが他界してから、私はまさにそうしたことに向かい合っている。日に日に、彼女が現代最も偉大なアーティストのひとりであること、彼女がいなければ今日の自分はいなかったことを確認しているのだ。

シャンタル・アケルマンは、弱冠15歳で衝撃的な短編『街をぶっとばせ!』(1968年)を発表した反逆なる映画作家であり、自宅でときおり売春を行っているある主婦の日常を描いた3時間の作品、『ブリュッセル 1080 コメルス河畔通り 23番地 ジャンヌ・ディエルマン』(以下『ジャンヌ・ディエルマン』)を非常に若くして撮り、当時のアート界に強い影響を与え、その影響は今日に至るまで続いている。『ジャンヌ・ディエルマン』が重要なのは、当時映画を撮っていた女性たちがごくわずか(アニエス・ヴァルダ、ヴェラ・ヒティロヴァ、シャーリー・クラーク、マルグリット・デュラス)しかいなかったからではなく、またアケルマンが上映時間、フレームの見事な技法を示してみせ、今日のもっとも優れた映画作家たち(ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ)の作品にその影響が認められるからでもない。それはむしろ世界中でたちまち、そして広く認められた同作が、親密さを共有する新たな方法の出現をあらゆる人々に知らせたからだ。当時のシネフィルたちは、アケルマンが自ら出演している彼女の処女長編作『私、あなた、彼、彼女』で、すでにそうした親密さを共有する彼女の新しい方法を感じ取っていたことだろう。同作で、アケルマンは長い固定ショットによって、自分の部屋に私たちを導き、食事(粉砂糖)や愛(若い女性の身体がアケルマン自身のそれと溶け合う)のシーンに立ち合わせる。アケルマンは、親身なる空間、親密なる時間によって、視聴覚的効果のエスカレートによる「まるでそこにいたかのような」ハリウッド的ヴァーチャル体験ではなく、他者によって生きられた人生そのものを感じ取る可能性を与えてきてくれた。アケルマンは登場人物と観客の周りに親密さを作り上げてきたのだ。

『ジャンヌ・ディエルマン』がアケルマンの唯一の革命的作品ではない、まったくそんなことはない。彼女の一本、一本の作品が革命であったと言う人もいるだろう。なぜならアケルマンは、明確なる欲望から出発し、その度に自分自身を作り変えてきたからだ。それは「概念」というものからは遠く、彼女の映画は欲望と創造力で作り上げる熱気をつねに放っていた。たとえば、『家からの手紙』(1977年)における旧世界からの言葉(彼女の母親の手紙)を新世界の映像(ニューヨークの街頭)に重ね合わせる試み、そして詩のやり取りをしているかのように、パリの街頭で無邪気な少女ふたりにお喋りをさせる試み(『おなかすいた、寒い』1984年)、あるいはブルックリンのある場所でユダヤ移民の昔話を集め、亡命の長い歴史を語る試み(『アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学』1989年)。しかし、もしアケルマンの第二の革命、もう一本の傑作を選べと言われたら、『東から』(1993年)を挙げるべきだろう。『東から』はベルリンの壁崩壊後の東ヨーロッパの田園、郊外で撮られたドキュメンタリーである。ナレーションはなく、雪の中を歩いて行く人々の表情や身体から構成されている『東から』は、他のどの作品よりも、20世紀の集団移動、戦争について語っている。アケルマンの映画は、言葉なしで、群衆の中に埋没している人間たち一人一人に親密さを取り戻させる。『東から』は彼女の一連の重要なドキュメンタリーの一作目であり、その他に、アメリカ合衆国とメキシコの間の国境で撮られた詩的な『向こう側から』がある。同作はアケルマンの視覚的才能と文学的なテキスト、オフの声への彼女のセンスを結びつけている。

アケルマンの映画において、親密さは絶えず更新されるフォルムによって、そしてしばしば他のアートを媒介にして伝えられる。たとえばアケルマンは世界中のあらゆるものにダンスを見出し、どんな短い言葉の中にも歌を聞き取る。こうしたことの背後にはつねに同じ感受性が存在している。その感受性は一人の作家のしるしであるだけではなく、「共有」としてあるものだ。ヨーロッパのユダヤ人の遺産として背負う耐えがたき運命の「共有」、「宿命」、それは彼女の遺作となった『No Home Movie』(2015年)の中でこれまで以上に明白に見えるだろう。同作品でアケルマンは、これを最後に、死の強制収容所から生き残った母親の沈黙と触れ合う。その沈黙は彼女の映画全体に宿っている。「共有」、それはまた映画、たとえばミュージカル・コメディにおけるシンプルなエモーションの共有でもあるだろう(『ゴールデン・エイティーズ』1986年)。人と人の間にはつねに恋愛の問題が付き纏う。それは『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』(1993年)で女友人に恋心を抱く少女ミシェルにとっても同様であり、その思いをゆっくりと発見する恩寵に満ちた瞬間が類いまれなる純粋さをもって描かれる。そしてプルーストの洗練された脚色である『囚われの女』(2000年)で描かれる妄想や嫉妬、あるいはコンラッドの著作の脚色である『オルメイヤーの阿房宮』でも見られる複雑な駆け引き。

シャンタル・アケルマンは私たちとともにその50年を生きた。今、彼女の映画作品と二冊の自伝的著作(遊びに溢れた『映画作家における自画像』と悲痛な『私の母は笑う』)をたずさえて、私たちは彼女と共にふたたび生き始めるのだ。
ニコラ・エリオット
(「カイエ・デュ・シネマ」ニューヨーク特派員、映画批評家、映画監督)

私がシャンタル・アケルマンと会ったのはアンソロジー・フィルム・アーカイヴで、アンソロジーがオープンした直後、1970年のことだった。彼女は20歳ぐらいで、ニューヨークに数ヶ月滞在していた。アンソロジーは彼女にとって映画を学ぶ大学のような場所で、毎日、すべての上映に通っていた。(...)彼女の作品が大好きだ。のちに彼女はより個人的な作品に向かうことになるが、それ以前も彼女の映画にはとても力強いものがあった。『ジャンヌ・ディエルマン』がアメリカで公開された時、私は「ヴィレッジ・ヴォイス」に非常に好意的な文章を寄せた。重要な作品であり、いい方向に進んでいると思ったからだ。(...)彼女の作品群はすべてが結びついており、壮大な一本のフィルムのようで、一編の叙事詩を思わせる。
ジョナス・メカス

アケルマンの多くの映画、そして驚くべきインスタレーションにも影響を受けたが、その中でもやはり映画の学生のときに発見した『ジャンヌ・ディエルマン』は限りなく大きなものだった。今でもよく家で見ることがあるのだが、彼女がこの作品で探求した限界、語りや登場人物における発明にいまだに驚きを禁じえない。『GERRYジェリー』や『エレファント』、『ラストデイズ』を撮ったとき、彼女から受けた影響は本質的以上のものだった。
ガス・ヴァン・サント

アケルマンの作品を発見したのは大学時代で、最初に見たのが『ジャンヌ・ディエルマン』だった。それは、ものの見方、考え方、映画を構想するやり方を一新するような体験だった。説話的思考をどう構想すべきか、スクリーンの中で一人の女性の人生をどう描くべきか、そうした映画作りの方法に深い影響を受けた。(...)この作品についてその上映時間の長さやロング・ショットについて語られるが、驚くべきサスペンス映画であり、ごく小さな出来事や細部から意味をはぎ取るその方法には予想もつかないような力強さがあり、この作品特有の時間にそって、徐々に不安を抱かせ、はらはらさせるものとなっていく。(...)そのほか、『家からの手紙』、『アンナの出会い』、『私、あなた、彼、彼女』などにも非常に感動を受けた。
トッド・ヘインズ

*上記の追悼文はフランス日刊紙「リベラシオン」2015年10月6日に掲載された記事の抜粋です。
2月5日(金)・6日(土)・7日(日)・12日(金)・13日(土)・14日(日)
会場:アンスティチュ・フランセ東京 エスパス・イマージュ
料金:一般1,200円/学生800円/会員500円
※上映当日各回の1時間前から上映開始20分後まで。チケット販売時間内には、当日すべての回のチケットをご購入いただけます。全席自由。整理番号順での入場とさせていただきます。また、上映開始20分後以降の入場は、他のお客さまへの迷惑となりますので、固くお断りいたします。

公式サイト:http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1602050214/
上映スケジュール

2月5日(金)
16:30
アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学
(92分)
19:00
東から
(110分)








2月6日(土)
13:00
東から
(110分)


15:30
オルメイヤーの
阿房宮

(127分)







18:30
アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学
(92分)


2月7日(日)
13:20
家からの手紙
(89分)


15:30
ホテル・
モンタレー

(63分)
部屋
(11分)





17:30
オルメイヤーの
阿房宮

(127分)



2月12日(金)
17:00
芸術省
(52分)


19:00
街をぶっ飛ばせ
(105分)
おなかすいた、
寒い

(12分)
8月15日
(42分)
上映後、ニコラ・エリオットのレクチャーあり
2月13日(土)
13:00
ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート
(60分)
15:00
私、あなた、彼、彼女
(90分)







17:30
ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン
(200分)
2月14日(日)
12:30
向こう側から
(99分)


15:00
ゴールデン・
エイティーズ

(96分)







17:30
囚われの女
(107分)




作品ラインナップ

『街をぶっ飛ばせ』(Saute ma ville)
ベルギー/1968年/13分/デジタル/モノクロ/台詞なし
出演:シャンタル・アケルマン

若い女性が鼻歌を歌いながら、料理をすると思いきや、キッチンをめちゃくちゃにし、壁を汚し、顔に食べものを塗りたくる。そして驚くべきラストへと向かっていく。
「アケルマンの反逆的作品群の出発店となる怒りと破壊的エネルギーに満ちた、ほとんどパンク的といえる作品」オリヴィエ・ペール
『ホテル・モンタレー』(Hôtel Monterey)
ベルギー/1972年/63分/デジタル/カラー/サイレント

ニューヨーク、マンハッタンにある安ホテル、アケルマンの眼差しによって、神秘と、予期せぬ美しさをともなって、廊下、エレベーター、部屋、窓、宿泊客(老人たち、ホームレス、犯罪者など)がまるでエドワード・ホッパーの絵画を想起させるように、精彩を帯びてくる。本作はまた「声を持たないアメリカ」についての映画でもある。
『部屋』(La Chambre)
ベルギー/1972年/11分/デジタル/カラー/サイレント
出演:シャンタル・アケルマン

360度のパノラマ撮影によって、キャメラがゆっくりと、異なる速度である住居の二つの部屋、台所と寝室としても使用されているリビングを回転しながら映していく。ベッドには一人の女、アケルマンが横たわっている。
「今日この作品はマイケル・スノーへのオマージュとしてではなく、隠されたものの官能的な力についてのメタファーとして理解できるだろう。ベッドの中にいるシャンタルの仕草が完全にとらえられることはない。彼女は女優となり、この作品はその女優による曖昧なる仕草の示唆によって映画として存在し始める。そのシンプルさで輝いている。」バベット・マンゴルト(『映画作家における自画像』、カイエ・デュ・シネマ/ポンピドゥー出版、2004年)
『8月15日』(Le 15/8)
ベルギー/1973年/42分/デジタル/モノクロ/英語版・フランス語字幕
共同監督:サミ・ズリンガーバウム
出演:クリス・ミリコスキ

1973年8月15日。パリで居候できる場所を探していたフィンランド人の若い女性、クリスは、アケルマンの友人で映画作家のサミ・ズリンガーバウムの家に住むことになる。クリスは子供のような英語で一日中話している。アケルマンとズリンガーバウム、ふたりの映画作家は彼女のお喋りに魅了され、いらだちながらも、彼女が語る姿を撮影する。人生の断片を語る彼女は、無意識ながら自分の脆弱さをあらわにしていく。
『私、あなた、彼、彼女』(Je, tu, il, elle)
ベルギー=フランス/1975年/90分/デジタル/モノクロ/日本語字幕
出演:シャンタル・アケルマン、ニエル・アレストリュプ、クレール・ワティオン

アケルマン演じる若い女性の人生の4つのスケット。女性は部屋で家具を動かしたり、手紙を書いたり、砂糖を食べたりしている。部屋を出て、トラック運転手と出会い、彼に体を委ねる。その後、部屋に戻り若い女性との親密なる時を経て、ふたりは愛を交す。
「観客は絶えず緊張感を持って彼女の道程を追い続ける。そこにはアケルマン自身がよぶところの「逸楽」があるのだろう。」(ジャン・ナルボニ 「カイエ・デュ・シネマ」276号)
『ブリュッセル 1080 コメルス河畔通り 23番地 ジャンヌ・ディエルマン』(Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles)
ベルギー=フランス/1975年/200分/デジタル/カラー/日本語字幕
出演: デルフィーヌ・セイリング、ジャン・ドゥコルト、アンリ・ストルク、ジャック・ドニオル・ヴァルクローズ

45歳のジャンヌは、16歳の息子と二人で暮らしている。息子が学校にいっている間、彼女は「客」をとっている。湯を沸かし、ジャガイモの皮をむき、買い物に出かけ、食事をし、眠りにつく...。アケルマンはジャンヌの「平凡な」暮らしを執拗なまでに描写しながら、やがて訪れる反日常に至るぞっとするような時空間を見事に作り出している。
『家からの手紙』(News from home)
ベルギー=フランス/1976年/89分/デジタル/カラー/英語版・無字幕(作品解説配布)

トラベリング、あるいは固定ショットで映される1976年のニューヨークに、母からの手紙を読むアケルマンの声がかぶさる。1971年から1973年までニューヨークに住んでいた娘へ宛てた母からの手紙、それはシンプルな、愛の言葉、不可能なる抱擁だった。母からの手紙、それはシンプルながら愛にあふれた言葉、不可能なる抱擁だった。アケルマンのニューヨークの忘れがたいタイムカプセルは、都会における疎外感、そして家族の断絶ついてのすぐれた考察でもある。
『ゴールデン・エイティーズ』(Golden Eighties)
フランス=ベルギー=スイス/1986年/96分/35ミリ/カラー/日本語字幕付
出演: ミリアム・ボワイエ、ジャン・ベリー、デルフィーヌ・セイリグ、リオ、シャルル・デネル

美容院やカフェ、映画館、洋服屋などが並ぶパリのブティック街は、カラフルで優雅な世界。そこにいる従業員や客たちの唯一の関心事は「愛」。それを夢見て、口にし、歌い、踊る。アケルマンによるミュージカル・コメディ。
「まずコメディを作りたいと思いました。愛と商売についてのコメディ。そこでは登場人物たちが早口で話し、欲望や後悔、感情に突き動かされ、絶えず動き回り、すれ違い、再会し、見失ってはまた出会います」シャンタル・アケルマン
『おなかすいた、寒い』(J'ai faim, j'ai froid)
ベルギー=フランス/1984/12分/35ミリ/モノクロ/無字幕・日本語同時通訳付
出演: マリア・ドゥ・メデイロス、パスカル・サルキン

ブリュッセルから一文無しでやって来た二人の若い女の子たち。うぶなふたりが愛について語り合いながらパリの街をさすらう。ふたりはレストランに入り、歌い、見物料を集めようとしたところ、ひとりの男性に出会う...。アケルマンがヌーヴェルヴァーグを再訪した『20年後のパリところどころ(新パリところどころ)』の一篇。
『アメリカン・ストーリーズ/食事・家族・哲学』(Histoire d'Amérique : food, family, and philosophy)
フランス=ベルギー/1988年/92分/35ミリ/カラー/日本語字幕
出演:エスター・バリント、マーク・アミティン、ステファン・バリント、カーク・バルツ

靄の中からニューヨークの街が姿を現わす。夜、ウィリアムズバーグ橋を背にして、ひとりの若い女性が少しおびえたような様子で自分のエピソードを語り、立ち去る。次は若い男、と次々に老若男女が現れ、話しては去る。彼らはヨーロッパから移住してきたユダヤ系の人たちだ。記憶と忘却の間で、それぞれのアメリカン・ストーリーが語られる。これらすべての「証言者たち」はニューヨークに住むユダヤ人俳優たちによって演じられ、そのことによってフィクションとドキュメンタリーが融合していく。
『ブリュッセル、60年代後半の少女のポートレート』(Portrait d'une jeune fille de la fin des années 60 à Bruxelles)
フランス/1993年/60分/ビデオ/カラー/無字幕・日本語同時通訳付
出演: シルセ・ルテム、ジュリエット・ラサム

1968年、ブリュッセル。15歳の少女ミシェルは学校をさぼり、20歳のフランス人脱走兵ポールと映画館で出会う。街を散策した後、ミシェルはポールと初体験を味わうが、それは彼に惹かれたというよりも、自分の中の説明しがたい欲望を追い払うためだった。ミシェルは、その欲望をどうしていいのか分からないまま、サプライズパーティーに向かい、女友達ダニエルに恋のときめきを告白する。
アルテで製作された「彼らの時代のすべての少年、少女たち」シリーズの一篇。
『東から』(D'Est)
フランス=ベルギー/1993/110分/35ミリ/カラー/台詞なし

ポーランド、ウクライナ、ロシア、冬の東ヨーロッパを旅するドキュメンタリー。場所の名前が表示されることも、ナレーションもなく、ひたすら群衆(雪に覆われた夜の道や大きな駅で重なり合っている人々)をとらえる横移動のトラベリングの映像やや家の中の人々の「ポートレート」が流れる。ソ連の崩壊後の旧共産主義国の都市、そしてそこに暮らす人々の日常生活についての強烈に心をとらえるドキュメンタリー。
「東欧の人々の顔、私はそれらをすでに知っていて、ほかの顔を思い出させもした。人々の待つ列やいくつもの駅、それらすべてが私の中で反響し、私の歴史の裂け目、想像の世界と共鳴していた。」シャンタル・アケルマン
『囚われの女』(La Captive)
フランス=ベルギー/1999年/107分/35ミリ/カラー/英語字幕
出演: シルヴィ・テスチュ、スタニスラス・メラール、オリヴィエ・ボナミ

マルセル・プルースト『失われたときを求めて』の第五篇「囚われの女」をアケルマンの自由な発想で映画化。パリの豪奢な邸宅で恋人アリアンヌと暮らすシモンは、彼女を求める激しい思いから、彼女を尾行する。そして彼女が女性と愛し合っているという妄想に取り憑かれる。プルーストに、デュラス的世界、そしてヒッチコックの『めまい』を想起させるアケルマンの傑作の一本。
『向こう側から』(De l'autre côté)
ベルギー/2002年/99分/デジタル/カラー/英語字幕

アケルマンはメキシコを訪れ、国境を越えアメリカ合衆国に渡ろうとする不法移入者たちの運命をキャメラにおさめる。まるで亡霊のみが宿るような砂漠の街。メキシコ人たちは貧困から抜け出すために危険を顧みずアメリカ合衆国とメキシコの間の国境を超えようとするのだが...。『東から』、『南』(1999年)と続いたドキュメンタリー3部作を締めくくる作品。
「『向こう側へ』の力強さは、その慎み深さにある。そこから感情が引き起こされるのではなく、込み上げてくる。」ステファン・ドゥローム「カイエ・デュ・シネマ」
『オルメイヤーの阿房宮』(La Folie Almayer)
フランス=ベルギー/2011年/127分/デジタル/カラー/英語字幕
出演: スタニスラス・メラール、オーローラ、マリオン、マルク・バルベ、ザック・アンドリアナソロ

東南アジアのどこか、嵐で氾濫する川の畔で、ヨーロッパ人の男が自分の娘への愛に取りつかれている。ジョウゼフ・コンラッドの同名小説を脚色した情熱と、破滅、狂気の物語。
「シャンタル・アケルマンの才能は、形式的発想が語れる物語の悲劇的側面に反したり、それを壊したりするようなことを一切許さないところになる。『オルメイヤーの阿房宮』は自分の娘への愛のために死を望む男の物語とも読めるし、あるいは自分の為に父親が死んでほしいと望む女性の絶望的な幻想とも読める。(...)それはまたある追求の物語でもある。父親的存在を拒否、あるいはそれを超えて、決然と逃走することによってしか手に入らない自由の追求の物語。」ジャン=フランソワ・ロジェ、「ル・モンド」
『芸術省』(Les Ministères de l'art)
フランス/1988年/52分/16ミリ/カラー/無字幕・作品解説配布
監督:フィリップ・ガレル
出演:シャンタル・アケルマン、ジュリエット・ベルト、レオス・カラックス、ジャック・ドワイヨン、フィリップ・ガレル、ジャン=ピエール・レオ、ブノワ・ジャコ、アンドレ・テシネ、ヴェルナー・シュレーター

「60年代後半、自分と同世代の様々な領域のアーティストたちについてのドキュメンタリーを撮るというアイディアが浮かんだ。その中に、ブノワ・ジャコ、ジャック・ドワイヨン、シャンタル・アケルマンらの映画監督がいる。彼らとは二重の意味で関係を持っている。彼らの実人生も、彼らの作品のスタイルも知っているからだ。それぞれの監督たちノ作品が僕にサインを送ってくれる。シャンタル・アケルマン、家の知らせを尋ねる幼いジャンヌ、北の国のシャイなジャネット。ニューヨークのシャンタル...。僕らの世代の女性たちの中でも、愛しい、子供のような人。一人の女性の勇気の中でもっとも美しいものをシャンタルは作品の上に差し出す。」フィリップ・ガレル
シャンタル・アケルマン
1950年ブリュッセルに生まれる。
15歳の頃にジャン=リュック・ゴダール監督の映画『気狂いピエロ』を見て、映画製作の道へ進むことを決意する。1968年、短編作品『街をぶっ飛ばせ』で映画監督デビューを果たし、一躍注目される。1975年、傑作『ブリュッセル 1080 コメルス河畔通り23番 地 ジャンヌ・ディエルマン』を撮り、映画に革命を起こす。その後も、短編、長編、フィクション、ドキュメンタリー、実験映画、文学の脚色など、様々なジャン ルで新しい映画の形態を探求し続け、現代映画の可能性を率先して見出してきた。その結果、ジム・ジャームッシュ、ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘ インズ、アピチャッポン・ウィーラセクタン、ミヒャエル・ハネケなど彼女の影響を受けた監督は後を絶たない。2015年10月に惜しまれながらもこの世を去ることとなった。

ニコラ・エリオット
2009年よりフランス映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』ニューヨーク特派員。アメリカのカルチャー雑誌『BOMB』の編集委員でもあり、アメリカの権威ある映画雑誌『フィルム・コメント』にも寄稿。シャンタル・アケルマンやフィリップ・ガレルについての論考も、世界各国で開催されている映画祭のカタログなどで発表している。映画作家としても短編を発表していて、『イカルス』は、2015年3月にニューヨークのMOMAやリンカーン・センター共催の映画祭「ニュー・ディレクター/ニュー・フィルム」で紹介された他、ロッテルダム、シカゴなどの映画祭でも上映された。数年前より、ニューヨークの実験的演劇シーンでも活動している。




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