OUTSIDE IN TOKYO
DIRECTORS' TALK

対談:アヴィ・モグラビ監督×村山匡一郎(映画評論家)

イスラエルの映画作家アヴィ・モグラビの最新作『Z32』が山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペ部門に選ばれたのを記念し、去る10月に東京日仏学院で特集上映が行われた。イスラエルで「アラブ人/パレスチナ人とユダヤ人/イスラエル人の間にはっきりしたナラティブ(物語)の分断がある」(ラファエル・ナジャリ)現状において、笑いのないユーモアを武器にその現実に自ら分け入ろうとするモグラビ監督の姿勢は、周囲の現実のみならず、映画のフィクション/ノンフィクションの分断性にも異議を唱えるアクチュアルな映画の実践として注目するべきものに思える。2009年10月2日、『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』の上映後に行われたモグラビ監督と映画評論家村山匡一郎氏との対談は、そうした監督の映画作りの実際のみならず、イスラエル映画の現状を知る上でも、貴重な対談となっている。
2009.12.3 update
素材提供:東京日仏学院
採録:OUTSIDE IN TOKYO

東京日仏学院院長ロベール・ラコンブによるイントロダクション:

なぜイスラエルの映画作家モグラビ監督の特集上映を日仏学院で行うかというと、それは、モグラビ作品の製作費は100%フランス資本であるということ、そして、もちろん監督の国籍はイスラエルですが、国籍を超えて大変重要な映画作家であると考えているからです。モグラビ作品は、アイロニーに富んで攻撃的であると同時に面白可笑しくもあり、現在の世界映画の中でも独特の位置を占めているといえます。笑えると同時に悲劇的であり、極端なまでに複雑なことを伝えている映画であり、その結果として当然のことながら、我々を深く感動させる映画になっているのです。

1. 現実を撮りながら現実によって変えられていくドキュメンタリー映画の面白さ

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村山:最初にお聞きしたいのですが、10年前の山形国際映画祭で『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』が上映されました。そして、今回の山形で『Z32』が上映され、こうして来日されているわけですが、この10年間で、ご自分の映画製作に変化はあったのでしょうか?
モグラビ:この10年間は私にとって進歩の期間だったと思います。10年前の『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』は、私の“スタイル”と呼べるものを使った2本目の作品です。当時は、自分がやっていることが自分の“スタイル”と言って良いものなのか、まだ明確ではありませんでした。実を言うと、『ハッピー・バースデー Mr.モグラビ』を作った後、自分はこれから何をしたら良いのか、とても迷ってしまい、その次の『8月、爆発の前』では、フィクションの部分を最も極端に押し進めた結果として、3人の人物を自分が演じるということまでやってしまった。よりによってドキュメンタリー映画の中で自分自身が1人3役をやってしまったら、次は一体何をやればよいのでしょう?その結果として次作『二つの目のうち片方のため』は、私の作品の中でも唯一フィクション部分が全くない映画になりました。同時に、全くユーモアのない全面的に悲劇的な作品となりました。最新作『Z32』は、以前のスタイルの延長線上にあるもので、映画の中にはドキュメンタリーの部分があり、それを作っている監督自身がそれを批評するという構造になっています。しかし、『Z32』はこれまでの作品とは全く異なった映画になっているのです。これまでの作品では、目の前の現実と向き合おうとしてきましたが、今回の作品では、記憶とその記憶の中で起こったことを再現するということに向き合っているからです。さらに以前の作品に比べて進展していると言えるのは、今までは自分自身に対抗する人物を演じて来たのですが、今回の作品では8人編成のオーケストラまで登場し、映画監督が歌まで歌ってしまうということになっています。ブレヒト的なスタイルとでもいいますか、、、。
村山:モグラビ監督の作品を見て、一番気になるのは、監督ご自身がカメラの前に出て来て、とにかく語るということ。自分が画面に出るということは、フィクションとノンフィクションの丁度分岐点に監督自身がいるということで、その点が僕にはとても特徴的に見えて、非常に面白く思えたのですが、その画面に向かい合うというスタイルをとろうと思ったのはいつ頃のことなのでしょう?
モグラビ:映画作家が自分自身を救う為に、そうせざるを得なかったのです。『わたしはいかにして恐怖を乗り越えて、アリク・シャロンを愛することを学んだか』の撮影を終えた時に、大変困った状況に陥っていました。撮り始めたときは、アリエル・シャロンを出来るだけ近くから撮影して、最も近くから見たシャロンを観客に見せるという映画を作ろうと思っていました。そこで困ってしまったのは、彼は化け物のような存在なのだから、画面でも化け物のように写るだろうと無邪気にも考えていたということです。しかし、アリエル・シャロンというような人でさえ、本人としてはとても愛嬌もユーモアもある人間であり、そうした様々な美徳というものが彼にもあって、見ているととても魅力的な人物にも見えてきてしまうということに気付かざるを得なかったわけです。なるべく彼に近づき、とにかく撮影するわけですが、その日の撮影が終わり、家でラッシュを見ると、そこには全くバカバカしい会話しか写っていない。つまり、結果として映画になっていない。そこで、選挙期間の2〜3週間前に思いついた結論は、単にシャロン氏についての映画ではなく、その映画を作ろうとしている自分自身の映画にならざるを得ないということでした。つまり、左派の過激派とも言える映画作家が、シャロン氏を撮っていくうちに、彼のカリスマ性に引き込まれてしまって、自分の理想や政治的信念というものをすっかり忘れてしまうという映画だったのです。その4年後に、シャロン氏は左派を含めた全体の支持を得てイスラエルの大統領になった。ここで皆さまが誤解されると困りますので一応言っておきますと、実際には私はシャロン氏を愛するようにはなりませんでしたし、彼が戦争犯罪人であることを一時として忘れることはありませんでした。映画の中では、そんな夫に愛想を尽かした映画作家の妻が去っていくのですが、現実に私の妻が私を捨てるということはありませんでした(笑)。
村山:僕は今回初めて観たのですが、非常に興味深い映画だと思ったのは、監督の政治的信条の立場から撮りながら次第にシャロン氏個人の魅力というものがあって、これは誰にもあるものだと思いますが、現実との間の落差がどんどん縮まって行く、つまり、現実を撮りながら現実によって変えられていくという辺りが一番面白かった。これはドキュメンタリーの最大の魅力だと僕は思っています。その意味から言ってもこのシャロンの映画はとても面白かった。
モグラビ:だからこそ私はドキュメンタリー映画を作っています。私が作る全ての作品の中には失敗があったり危機があったり、自分が現実を理解していなかったり、撮ろうとしている現実を誤解しているということを常に突きつけられながら映画を撮っているのです。そうした危機の瞬間そのものが私の創作の最大の源であると言えます。同時に私にとっては映画を作っていく過程そのものを自分の映画の中に組み込んで行くということが大変重要なことで、それがドキュメンタリーという概念に対する復習になっているのです。伝統的なドキュメンタリーというか、現代作られているドキュメンタリーのほとんどは、起こっている現実とそれを撮影したフィルムの間が直接繋がっているのだという幻想によって成り立っているのですが、そのコンセプトの間に自分を分け入りたいのです。

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