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DIRECTORS'TALK

アモス・ギタイ監督特集 越えて行く映画
アモス・ギタイ監督による解説とQ&A

第11回東京フィルメックス、及び、東京日仏学院で行なわれたアモス・ギタイ監督特集上映<越えて行く映画:第1部・第2部>の上映前後に行なわれた、監督による作品解説、及び、観客とのQ&Aの採録を掲載します。
2010.12.24 update

同時通訳:藤原敏文
採録、文責:上原輝樹

第1部@フィルメックス

<亡命三部作>
『エステル』
『ベルリン・エルサレム』
『ゴーレム、さまよえる魂』
2010.12.24 update

<最新作>
『幻の薔薇』 2010.12.27 update
第2部@東京日仏学院

<イスラエル現代三大都市三部作>
『メモランダム』 2010.12.27 update

<ユートピア崩壊三部作>
『ケドマ』 2010.12.27 update
アモス・ギタイ監督特集 越えて行く映画:第1部・第2部 2010.11.22 update

『エステル』



<上映前の解説>

ドキュメンタリ作品をこの以前に何本か作ってきたが、映画作家の重要な責務とは、難しい質問を敢えて問うこと、だと思っています。しかし、私の信念は必ずしも多くの人が理解するところのものではなかった。そうした状況の中で私は最初のフィクションを作る決意をしました。実は、私は映画学校で行うような授業というものを1時間足りとも受けた事がなかったのです。そこでこの『エステル』の準備をしている時に、アシスタントにどうせだったら、フランスで最高の撮影監督に連絡をしてみたらどう?と言われ、その通りにしてみたのです。それがアンリ・アルカンだった。それは大それた提案ではあるけれども、私は一方でアンリ・アルカンがどう思うかということに興味を持ってしまったのです。その当時アンリ・アルカンは、アベル・ガンス、ルネ・クレマン、チャールズ・チャップリン、ジャン・コクトーといった人達と仕事をしていましたが、まだヴェンダースの『ベルリン天使の詩』を撮る前のことでした。私は、アンリ・アルカンの家に呼ばれたので、会いに行きました。そこで彼は一言だけ短いフランス語で「興味がある」と言った、そして、ひとつだけ条件があると。そのとき、アンリ・アルカンは78歳でした。私は、その条件とは何ですか?と尋ねました。アルカンの条件というのは、自分の照明技師を一緒に雇ってくれということでした。それは勿論大歓迎ですと私は言った。すると、だけど彼は82歳なんだよと言いました(笑)。私は二人の素晴らしい人間にこの映画に参加してもらうことが出来ました、78歳の撮影監督と82歳の主任照明技師です。この二人から私は大変多くのことを学んだ。この二人と一緒に仕事をしたということが私にとっての映画学校だったのです。

それから私達は改めてこの映画の原作になっている聖書の中の“エステル記”という文章を読み直しました。そして、その聖書が持っている文章自体の美しさに注目しました。なぜなら、聖書(旧約聖書)の文章はミニマリズムの文章で描かれているものだからです。そしてこのエステル記という物語は、迫害されるものが、ある段階で迫害するものの側にまわるという、歴史の中で何度も繰り返されていることのメタファーでもあります。そして、私たちは視覚的なリファレンスを探し始めました。そこで、私たちはペルシャの細密画の画集を検討し始めました。16世紀や17世紀の大変美しいペルシャの細密画です。その意味でこの映画は、16世紀、17世紀の巨匠たちにも大変大きな影響を受けた映画です。
<上映後のQ&A>
Q:イスラエルとパレスチナの関係性について、近年何か変化は感じられますか?
A:この映画のラストシーンで、出演者全員が登場するところでお分かりになったかと思いますが、この映画ではユダヤ人の役をパレスチナ人にやってもらっています。そのような形で映画というものが、ささやかでもいいから何か”橋”のような存在になってほしいと考えています。ですから、映画の中で物語っていることと同じことが、キャメラの前でキャスティングにもあるし、キャメラの後ろ側でスタッフの側にもあります。そうした全てが有機的な繋がりの中で存在出来なければ良い映画は出来ないと思っています。もちろん、映画が現実を覆う憎しみであるとか、悪意といったものと闘うには本当にささやかな力しか持っていないというのは確かだと思います。そうは言っても、どこからか始めなくてはいけないわけですし、ここがささやかな出発点になることを私は信じています。この映画の中でモルデハイというユダヤ人を演じているのは、ムハンマド・ヤミニというパレスチナの大変有名な俳優です。またラシッド・マシャーウィは、自身映画作家として活躍しています。ですから、映画というものは現実によって与えられる事のない対話の機会というものを与えてくれるものであると私は思っています。
Q:古代劇の背景で現代の音が鳴っているとか、演者が画面を向いて話しだすとか、ブレヒト劇的な異化効果を多く使っていると思いましたが、いかがでしょうか?
A:ブレヒトの劇はベルリンのシアターで観ています。私の狙いは、ある一点で建築的な距離を作りだすことでした。ドキュメンタリでは直接的なスタイルを作ってきましたが、フィクションに取り組む時はむしろ、寓話的なものを考えていました。
Q:画面外の語りと劇中人物の語りの2つの語りがあったのですが、それは2つ必要だったのでしょうか?
A:エステル記の一章がひとつのショットになるよう画面は構成されています。私は、自分自身が一人の観客であるわけですが、映画というものは、じっくりと椅子に座って鵜呑みにするというだけ、消費するだけのものではなく、自分の意思、自分の考えで解釈するものであってほしい、参加する体験であってほしいと思っています。むしろ、映画とは、上映が終わったときに始まるものであるのかもしれない。話を映画に戻すと、アンリ・アルカンとペルシアの細密画を見ている時に面白いことに気付いたのです。それぞれの作品でそれぞれのフレームを問い掛ける試みが行われていることに気付いたのです。例えば、画面の端に切れたところに木が描かれている、作者は木を枠に収める為には枠を拡げなければならない、つまり、それはひとつの画面の中に木を収めようとする、あるいは、木を途中までしか描かないということではなく、描かれている木によって画面の枠組みというのは変化させられているということを考えた。それで“枠組み”そのものを問い掛ける、フレームそのものに疑問を呈するという試みをこの映画の中で使ってみようと思い、この映画の中では、その語り部が突然画面の前に出てきたり、時にはシーンの中の一人の人物として出てきたりということをやってみたのです。
『ベルリン・エルサレム』



<上映前の解説>

ドイツ表現主義派の詩人エルゼ・ラスカー=シューラーとロシア出身の革命家マリア・ショハット(劇中ではタニア)、1930年代のベルリンとエルサレムを舞台に綴られる二人の女性の物語。ベルリンでの出会いの後、タニアはパレスチナに移住し、キブツ運動のリーダーとなる。ドイツにナチス政権が樹立されると、エルゼもベルリンを離れて、エルサレムへ。
撮影はヨーロッパとイスラエルで行われた。撮影は、アンリ・アルカン。ドイツでは表現主義的絵画を参照して、影を重視、イスラエルのキブツの方は、社会主義的リアリズムの絵画を参照した。冒頭のシーンでは、ピナ・バウシュが大きく貢献してくれた。
アンリ・アルカンは、何をどのように撮りたいのかを、最初に考えることが重要だと教えてくれた。だから、デジタルキャメラなどのことが多く語られているが、それは一つの手段に過ぎず、左程重要なことではない。アンリ・アルカンは、アベル・ガンス、チャールズ・チャップリン、ジャン・コクトーといった人達と仕事をしてきた撮影監督だが、一方で、とても謙虚でユーモアのセンスを持っていて、映画においては、そうした洗練こそがより重要なことだ。
アレクサンドル・トローネルは、ベルリンの建築物でどれを本作で参照すべきかを、その実物を案内して教えてくれたので、謝辞を捧げている。共同製作者として名を連ねているラウル・ルイスは、彼が留守の間、パリのスタジオを貸してくれた。
ラストシーンは、『エステル』のラストシーンに呼応し合うもので、『幻の薔薇』のラストシーンとも呼応し合っている。
本作では、二人の女性の物語を描きたかった。ユートピアを女性的な視点で見つけたかったのだ。1つは政治的なユートピア、つまりキブツのことであり、もう一つは、芸術上のユートピアを探した。この2つが、エルサレムという場所を支えている。エルサレムというのはとても力強い場所で、人類の歴史に大きな影響をあたえており、もしかしたら、未来のユートピアとなる土地であるかもしれない。
『ゴーレム、さまよえる魂』



<アモス・ギタイ監督に代わって、藤原敏文氏によって行われた上映前の解説>

旧約聖書の「ルツ記」を下敷きに、スペイン・ユダヤ神秘主義の秘伝の書カバラに着想を得たゴーレム伝説を亡命者の守護神として再定義、異国の地に移住したユダヤ人の家父長が亡くなった後、その妻や義理の娘たちがとる行動を描く。度重なる不幸に流浪を余儀なくされるナオミと義娘ルツ、そんな二人を優しく見守る亡命者の守護神ゴーレムを、ハンナ・シグラが演じる。サミュエル・フラーが家父長エリメレクを演じ、ベルナルド・ベルトルッチ、フィリップ・ガレルらがカメオ出演を果たしている。

歴史的、宗教的テクストを現代の文脈に置き換えて描かれた作品。冷戦が終わると同時に、ヨーロッパにおいて新しい人種差別、ファシズムが盛んになってきた時代であり、ほぼ同時期にギタイは、ドキュメンタリ映画「ファシズム3部作」撮っている。ただしそれは現実の文脈で作られたものであって、このような映画というものは観客の皆さんが生活している文脈の中でご覧頂くのが一番面白いのだと思います。

そこで、人造人間ゴーレムについてですが、旧約聖書では、最初の人間アダムは土から作られたということになっていて、ヘブライ語では、“人間”が“アダム”で、“土”が“ダム”、“命”が“アダマ”といいます、ですからユダヤ神秘主義(カバラ)といいますと、なにやら摩訶不思議なイメージがありますが、実は言語と数字に基づいたもの凄く論理的に作られた世界でそのことも映画に大きな影響を与えているのではないかと思います。そこでゴーレムは人間が作ったもの、人造物であるわけですが、必ずしも人造人間的、SF的なものだけではなく、人間が作ったもの全てがゴーレムであるという考え方もあるわけです。ですから、現代文明、機械文明にもゴーレムはあるかもしれないし、イデオロギーという言葉で作られている、アメリカであるとか、ソ連であるとか、あるいは、イスラエルそのものがある種のゴーレムであると考えることも恐らく可能だろうと思います。そのような事を考えながら見て行くと恐らくストーリーの助けになると思うのですが、もう一つは、有名な映画作家が出て来るので、それにも注目してください。
<上映後のQ&A>
Q:昨日、今日と「亡命三部作」と呼ばれる作品を拝見しました。いずれも現代の私たちが抱えている宿命的な問題を描こうとされている感じがしました。監督の作品をこれからも見続けたいと思います。それで今日拝見した『ゴーレム、さまよえる魂』で、ゴーレムという人間ならざるものの存在が描かれていたと思います。印象的な俯瞰撮影もいくつかあって、それも神の視点ということを連想させられました。そこで質問なんですが、監督ご自身はそのような霊的な存在、あるいは人間を超越した存在、もっと言えば神と言ってもいいんですけれども、そういうものについてどのような考えをお持ちでしょうか?
A:今のは大変複雑な質問だと思います。私は人間というものが単に物質的な物事、物質的な満足だけで生きていける存在だとは思っていません。つまり単なる消費者の役割で生きていくことは不可能だと思います。精神的なものというのを人間は必要としています。中にはそういった精神的なものが宗教という構造をもったものとして必要としている人もいます。私は全ての人間がそうだとは全く思っていません。しかしそういった宗教的な儀式に行かないのであれば、自分の精神的な存在というものを自分で作り出さなければいけない。それは大変に時間がかかる、大変に労力が必要なことです。ですから既に出来上がったものを素直に受け取ることを必要としているのかもしれません。ですから現在の物質文明の中で満足できないことがどうしても出てくる時、そのことが現在の宗教が復興していることと繋がっているのではないでしょうか。人間にとっては物質的な存在、物質的な満足、理解の部分で精神的にも自分の考え、自分の信念というものを必要としているし、それは追求することは人類の誠実な追求であり続けると私は思っています。
Q:私は今朝、この映画について全く予備知識を持たずに来ました。そして、この映画を観ながら先日読んだ本を思い出したんです。その本の名前は「バベルの謎」という本でした。その内容は旧約聖書というのは人と神やヤハヴェとの物語と一般に思われているが決してそうじゃない、人は土から作られている、神は人を土で作ったという意味で人と神と土との物語が旧約聖書の物語だというものでした。そして神は決して人は言葉を自由に操ろうと、どんな高いバベルの塔を建てようと、そんなことでいちいち怒りを、そんなケチな根性を神は持ってない。ただ、神が唯一警戒していたことは人と土との結託、人は神をないがしろにして自然を相手にやることを恐れていた。今日この映画を観てまさに人と神と土、地、神の理に習った血筋を作っていかなければいけない映画だと受け止めました。
A:この映画は亡命の三部作の最後となるので、この三部作の中で私はいくつかやりたいと思っていたことがありました。例えばそこで考えているのはパゾリーニが現代人として古代の文章を解釈する権利を取り戻すこと、その古典的なテキストの解釈を単に宗教では教会にまかせているのに、独占させるのではなく自分達の手に取り戻そうとしたことを非常に尊敬していました。ですから私たち現代の映画スタッフは単に自分達が生きている時代だけというほんの薄い層だけをはやしたてるわけにはいかないと思うんです。私たちは一方で古典的なもの古代のものにも遡らなければいけない。そういった古代の文章は人間の存在の中の矛盾や葛藤の最も根本的な部分を書いているものであります。例えば定住している部族と遊牧している人達との対立。ほんの二、三日前ですけど東京に来た時に、東京の友人達とちょうど半年くらい前に中国に行った時の話をしました。その会話の中で話したことは中国で私は中国政府の人物と会ったわけですけど、私自身その時中国政府の高官に言ったのは、私はたった700万人しかいない国から来ました、あなたは13億人もいる国の人です、そこには大変に長いそこに定着した歴史があります、私の国は彷徨える民、放浪の民の国です、人類というのはその両方によって常に作られてきた、定住する民族は農業を行ったり、あるいは建築を作ったりしています。一方で彷徨える民はある場所から別の場所へと色々な考え、アイデアを運ぶことで人類全体の進歩に貢献してきました。もし今日この映画をご覧頂いて気に入って頂くとしたら、この映画はまさにそのことを描いている映画なのです。そこでもう一つ非常に大事なこと、人間的な豊かさということをやはり話さなければいけません。この映画の中で3人の非常に素晴らしい優れた人間的なものを持った俳優が出ていて、その3人が惜しくも亡くなってしまいました。一人はアメリカの偉大な映画監督でもあるサミュエル・フラー、もう一人は素晴らしい俳優であったソティギ・クヤテ、そしてイタリアの俳優ヴィトリオ・メッツォジオルノの3人です。ですからこの映画のもう一つの目的は異なった出自を持った人達が集まって何かを作ろうということでした。例えばベルナルド・ベルトルッチが出てくる場合もありましたし、ストックハウゼンがドイツの音楽を作り、アントワーヌ・ボンファンティとアンリ・アルカンがフランスの撮影を行う、そういった異なった出自を持った人達が一つの古典的な神話的なテキストを扱う、と同時にその神話的なテキストは極めて現代的なものでもあるということです。


『エステル』

出演:シモーナ・ベンヤミニ、ムハンマド・バクリ、ジュリアーノ・メール ザーレ・ヴァルタニアン、シュムエル・ウォルフ

フランス=イスラエル=イギリス=オーストリア=オランダ/1985年/97分/35ミリ/カラー/日本語字幕付



『ベルリン・エルサレム』

出演:リザ・クロイツァー、リヴカ・ニューマン、マルクス・シュトックハウゼン、ベルナール・アイゼンシッツ、ヴッパタール・ピナ・バウシュ舞踊団

イスラエル=オランダ=イタリア=フランス=イギリス/1989年/89分/35ミリ/カラー/日本語字幕付



『ゴーレム、さまよえる魂』

出演:ハンナ・シグラ、サミュエル・フラー、オプラ・シェミシュ、ミレイユ・ペリエ、ファビエンヌ・バーブ、ソティギ・クヤテ、ベルナルド・ベルトルッチ、フィリップ・ガレル、ヴッパタール・ピナ・バウシュ舞踊団

ドイツ=オランダ=イギリス=フランス=イタリア/1991年/105分/35ミリ/カラー/日本語字幕付