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WAYNE WANG INTERVIEW

ウェイン・ワン:オン『千年の祈り』

3. 役者が疲れ果てるまでカメラを回し続ける。いずれ彼らは色々やらなくなり、ただ役に成り始める。

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そのような仕事の仕方をする時、撮影の画作りとはどうバランスを取りますか?撮影というか、映像に対するエゴのようなものは?
そうだね。画に対するエゴね。まあ、撮影のエゴは常につきまとうものだ。でもその全てが物語を語るためにあるから。興味深い視覚的な方法で。だから例えば、この場合、2人が壁を隔てて座るショットだけど、それは前から僕の頭に中に浮かんでいたものだ。それで撮影監督に、あの壁と、2人を隔てるものが必要だと話した。あれは2つの世界をフレームに入れたようなものだ。そうした要素は、全て物語を語るためにある。父と娘についての話であり、2人は同じフレームで繋がりながら、実は繋がっていないわけだ。だから、撮影がきれいで主張し過ぎるのはよくない。よく日本映画にこの問題が見られる。いつも美し過ぎる。撮影というのは、物語と、そこに起きていることを支えなければいけない。建築的に、僕は大のバウハウスのファンだ。形式と機能は平等でなければいけないと思う。互いに支え合わなければいけないんだ。

それでたくさんの角度が(映画の中で)見られるのですね。
確かに、僕は少し妄執的でしつこいかもしれない(笑)。それにスイス人の撮影監督が撮っているから、それでも分かるよね。スイス人の撮影監督はとても正確だ。たまにそれが気になる時があるけど、それがあったのはよかったと思っている。たまに、少しだけラフにするために、カメラにぶつかるかもしれないからね、って彼には言ってあった(笑)。

映画の最後でそうなることを少し期待してたんですよ(笑)。それでもすぐにきちんと戻るんです。でもよかったですよ。ある意味、不思議な浮遊感がありましたが?
そうだね。一度、その軌道に乗ってしまうと、それを壊すべきではない気がして(笑)。でもこの映画に繋がる、もうひとつ別の映画でそういうことをやったんだ。これもイーユン・リーの書いた同じ本の短編からとったものだけど。タイトルは『Princess in Nebraska』(07)。その映画は完全に手持ちカメラで撮っている。ほぼ全てクローズアップで。ジャンプカットとかも入っている。完全に実験的な映画だ。でもフランスではおもしろかった。彼らは2本の映画を一緒に上映したんだ。マルチプレックスの違うスクリーンで。彼らの宣伝した方法は、2本の映画、2人の女、2つの世代、とかだったと思った。それはとてもおもしろいと思ったよ。なぜなら、その2本の映画は繋がっているけど、同時に違うものだから。イーユン・リーは、文化大革命を経験した世代だ。でも『The Princess of Nebraska』の若い娘は19歳くらいで、文化大革命以降に生まれている。天安門以降の世代だ。それ以前のことはほとんど知らない。その記憶がないのだから。だから2人は全く違う世代の人間なんだ。

あなたは映画でポール・オースターのような作家と仕事していますが、それは自分ではどう考えてますか?
うん、ポールはとても特別な作家だ。それで僕はあの映画(『スモーク』)をほぼ舞台劇のように扱った。全ての言葉を尊重した。そして覚えているのは、ウィリアム・ハートとハーヴェイ・カイテルが決まった時で、2人とも演劇の経験があった。演劇では、台詞を変えることはない。言葉をいじらない。それは神であり、聖書のようだ。そういう感じで仕事した。何か問題が発生するまでは。そこでポールに、問題を解決できないかとなんとなく相談できる。そうやって解消した。同時に、映画は違う生き物だ。適応していかなければならない。新しい生命を吹き込んでいかなければならなくて、それが可能な時はそうするようにした。覚えている瞬間がある。僕らが『スモーク』を撮っている時、そのシーンを覚えているか分からないけど、ウィリアム・ハートの役の男を襲いにきた2人の麻薬売人がいたんだ。それで2人目の売人は口がすごく悪くて、実際、ゲットーの黒人のように、何をしゃべっても、「ファック」とか「クソ野郎」とかが付くんだ。そして彼はそれを変えることができなかった。それが彼らの話し方だから。でもポールはそういうのは外して、黒人の役者にとって自然ではない形に書いていた。そしてポールは自分の書いた台詞の正しい言い方を役者に教えようとしていて、僕はそれを見ていた。でも役者は全くその通りにはできなかった。ポールの顔はどんどんどんどん赤くなっていった。と、まあ、それがおもしろい例だと思うんだけど。最終的に僕は彼らのところへ行き、言った。「ポール、落ち着こうよ。彼が持っているリズムで言わせてみるといい。ラップと同じだから。それを変えて、汚い言葉はだめだとか言ってもしょうがないだろ。彼らのやりやすいようにやらせてみようよ」と。

ポールとは今後、一緒に仕事する予定はありますか?
(笑)うーん、実は久しぶりにポールに会ったんだ。もう何年ぶりかだった。ロカルノ映画祭で、この映画がいくつも受賞した折だった。ポールはその審査員の一人だった。それで僕らは話し、仲直りをした。ひどい仲違いをしていたからね。だからちょうどいい企画があれば、もしかしたらね…。

まあ、彼も今は自分の映画言語を持っていますからね。
そうだね。その通りだ。彼は自分の言葉を持っている。彼は何本かおもしろい映画を撮ってもいる。だから独自の映画言語を持っているね。

少し触れたけど、役者と仕事する方法として、演技というより、リアルに成り切ってほしいと役者に指示したらしいけど。あなたの映画では全てそういう感じがしますが。そこで、それはどういうバランスをとるのでしょう?リアリティーと詩的感覚という意味で。もしくはリズムとか。
うん、ポエトリーはたぶん、映像と内容からくるんだろうね。僕がいつも役者に言うのは、何もしないこと。ある映画に出ていたウォルター・マッソーを覚えているけど、彼は感情を素晴らしく表現していた。そしてインタビュアーが彼に聞いていたのを覚えている。どうやったの?あの場面をどうやってあそこまでうまく演じることができたのって。すると彼は言った。頭の中で、その日の洗濯をどうしようか考えていたんだって。そこに何か大事なことがあると思う。キャラクターを把握し、とても真実味のある方法で、その瞬間を感じることができれば、ちゃんと伝わるのだと思う。だからシー氏とフェイユーのことで僕が言ったのは、基本的に、何もしなくていいってこと。キャラクターとこの瞬間を理解していればいい。その瞬間について話すことはできない。その瞬間にいることしかできない。それが僕の仕事の仕方だ。ある役者たちは僕のことが大嫌いだと思う。僕が全てを取り除いてしまうから(笑)。

それで彼らがそれを気に入らなかったらどうなりますか?
彼らがそれを気に入らなかったら、彼らが疲れ果てるまでカメラを回し続ける。そうしたら、彼らもあまり色々やらなくなる。これは本当だ。イーランがロシア人の恋人と一緒にいるシーンがある。彼女はそこで感情を大げさに出しすぎていた。そして彼女を落ち着かせることができなかった。ちょうど真夜中で、僕は撮り続けた。そして午前3時になり、すごく寒くて、遅くて、彼女はただ役に成り始めた。まあ、それはトリックでもあるんだけどね。どの監督が使っているか忘れたけど、役者が疲れるまで撮り続けるってことさ。そうしたら、もう演技しなくなる(笑)。

この(父娘が湖を前に佇む)シーンはなんだかこの世のものでない気もしました。どこかで会い、再び別れていくような。そしてリアルでありながら、リアルでないという。
そうだね。少し夢っぽいよね。どうだろう。時々、奇妙でマジカルなことが起きて、僕はそれを説明できない。その湖で撮影したのは、とてもきれいで美しかったから。撮影している間、ずっと静かだった。すると突然、奇妙な風が吹き始めた。あともう1テイクしかできないのは分かっていた。そしてどうしてか、もう一度だけやってみようってなった。もうそれだけだ。すると何かが起きた。2人は互いの顔を見合わせた。僕は何も指示していない。そして2人とも微かな笑みを浮かべていた。そこに何かがあった…。すると風が急に強くなり、そこに何かが生まれた。結局、その最後のテイクを使った。それで、これはおもしろいから、もう1テイクやってみようと言い出したら、風が阻んで何もできなくなった。すごく風が巻いて、彼女の髪はばさばさで、あの瞬間はもうなくなっていたんだ。

そんな魔法の瞬間はこの映画の終盤で見ることができる。だが大事なのは、そこに至るまでのこの物語の時間を一緒に呼吸すること。物語を取り込み、自分の経験に照らし合わせて振り返り、また物語に入り、その世界を呼吸する。そんな姿勢で見られる映画は、実はそう多くない。そんな彼の次回作はチャン・チー主演の『Snow Flower and the Secret Fan』になる模様だ。

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