OUTSIDE IN TOKYO
Rithy Panh INTERVIEW

リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』インタヴュー

5. 映画監督のコミットメントというのは全体主義者に対する戦いであるべきだ

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OIT:いえいえ。監督は『アクト・オブ・キリング』(12)という映画ご覧になっていますよね?
RP:はい、観ました。監督をよく知っていますよ。私の『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』はかなり影響を与えて、インスパイアしていると思います、というか、彼自身もそう言っています。僕の作品が彼の仕事を助けたと言っています。彼とは話し合う必要があるかなとも思いますが、非常に議論の余地がたくさんある作品だと思います。ちょっと実験的な経験をかなり極端なところへ進めた人かもしれませんね。でもある瞬間に、ちょっと動揺させられます。自身が犠牲者の立場だったからかもしれませんし、映画監督のコミットメントというのはそういう全体主義者に対する戦いであるべきだというのが頭の中にあるんです。昔の犯罪者というのが作品の中で映画監督と合体するような瞬間がありますが、それにすごく動揺させられるというのは虐殺者たちに映画作家と同じポジションをとらせてはいけないという風に思っているからこそ、一体化する共犯者になってしまう時に酷く動揺してしまう。よく分かるのですが、彼はそれを敢えてしたわけです。カメラの後ろに元虐殺者がいたり、それが意図的だというのはとてもよく理解できるのです、ちょっと気まずい思いもします。カメラの後ろは僕の場所だと思っているので。あなたがペンやカメラを持っているポジションというのは、虐殺者に奪われたくない仕事道具ですよね。虐殺者たちは自分たちを自己演出するわけですよ。そんな人たちに自分の仕事道具を渡したくないという気持ちもあるはずです。そんな元虐殺者たちが嬉しそうな表情とか、喜んだりするのは動揺させられ、とても気まずいです。虐殺者たちも映画がどういうものかを知っていてやってるわけですから。映画も観ているでしょうし、躍るのも好きだし、ちょっと横柄になっているんじゃないかって、犠牲者たちを更に怯えさせるという、そんな力をもう一度彼らが手にするような、そんな気がするんです。私は犠牲者の立場ですから、映画監督の立場としてそれは出来ない。彼が、それを敢えてしているのはよく分かりますし、この経験がどこまで、どんな限界までいけるのか試しているのはよく分かるのですが、今回その映画での問題は、被害者というか犠牲者の声が聞こえてこない。最後に結論として、やはり虐殺者も僕らと同じ人間だったという結論というのはちょっとね。僕自身ももちろん人間だって。はい、人間ですよねとは言いますけど、それでも“私たち”のような人間ではないですよ。私たちは誰も人を殺していませんし、人を殺していない私たちとあの人たちが同じだとは言えないのです。人間かもしれないけど、人間を殺していない私たちとは明らかに違います。虐殺者たちが私たちと同じ人間なら、それなら犠牲者は何ですか?虐殺者が人間だと言うならば、あなたたちは犠牲者になんという名前を与えますか?それと同じなんです。

OIT:しかも、映画にあるように、自分の声として出さなければ記録も残らないわけですよね。そういった映画の中であなたが表現していることと、今の話がとても繋がってくると思うのです。自分が情報とか記録として残っていない。『消えた画 クメール・ルージュの真実』では、犠牲者としての立場が記録として残っていないわけですよね。自分の声で語る重要性がそこで更に必要になってくるわけですよね。
RP:声は失ったかもしれないけど、魂は残っていると思っているんですね。その犠牲者として。粘土の人形は動きませんが、表現はしていると思うんです。たとえ体を破壊出来ても、想いは破壊出来ない、声は想いとイコールだと思うんです。それぞれが自分の中で考えているということは、プロパガンダ的なものに対抗する一つの手段なわけです。なので、今回2種類の映像を交互にしたのはプロパガンダ映像に対抗する“想い”の映像として、粘土人形の映像を対峙させたわけです。

OIT:それに、音もとても豊かでした。
RP:そうですね。歌も聴こえてきますし、クメール・ルージュの非常に軍隊的な音楽と同時に、価値が分からなくても非常に士気を高揚させるようなアコーディオンが聴こえたり、中国の革命を思わせ、いつも階級闘争というか、自分たちの政党を正当化するような、感情もなければ愛情もない。こちらはギターがあったり、愛や喜びの声や感情を表す声が乗っていて、それが人間なんですよね。ポップやロックやクラシックとか、そういう多様性が人間なんです。だから私たちは人間的に多様で、あっちはスローガンという一枚岩なんですね。こっちはちゃんと表情も表現も豊かなのに、プロパガンダは表現もなく、多様性もないという、一枚岩でモノトーンなものです。アイデンティティもなければ多様性もない。なので、『消えた画 クメール・ルージュの真実』の中で私がやりたかったことは、そういうプロパガンダのアーカイブ映像と対峙させる形で、矛盾を暴くような形で人間の豊かな、本当の人間の本質を持った音であるとか、粘土人形を対峙させて、プロパガンダの虚をつくようなことをしたかったのです。

OIT:そして今の音や、そういったことを語れる私=監督が、何かを聞いたり見たりしていることに、何を考え、何を想像しているのだろうという自分も想像しながら見ています。
RP:今回、粘土人形というものがどういう風に作られているのかという工程を見せることで、皆さんに参加してもらいやすくなったのではないでしょうか。粘土でしょ、水でしょ、風でしょ。そういう自然の要素から人形が作られていて、表情を持っていて、魂もある。そう魂があるのです。あの人形には。人形がたとえ動かなくても、そこに魂がある限り、それは映画として収める価値のあるものになるんです。魂があるからこそ、監督としてはそこに息を吹き込むことが出来るんです。そして観客もまたそこに魂があるからこそ、人物の粘土人形に感情移入が出来るようになるわけですよね。でもそれは動かず、アニメーションではないので。でもあなたと粘土人形の間には明らかな距離感があると思いますが、その完璧に密着していないところが、僕の言う適切な距離というもので、それがあるからこそ、あなたは観客として色々な想像力を飛翔させることが出来るんじゃないかと思うんですね。日本の皆さんもそのことをとても理解してくれるのではないかと思っています。霊や魂といったものは、日本の文化の中にあるものですね。お寺での、皆さんのお祈りやお願いは、石像や木像に単にお祈りしているわけではなく、そこにある魂に手を合わせるわけですからね。それはクリエーション、映画の謎、マジカルな部分とはそういうものだと思います。物でも、お寺の仏像でも、そこには魂を宿らせることが出来る。そういうクリエーションのマジカルな部分、つまり映画のマジカルな部分こそが、全体主義的なイデオロギーを壊し、対抗することが出来る。質問への答えになったでしょうか(笑)。なぜ僕が映画を選んだか分かりましたか?

OIT:はい、やはり話を聞いてよかったと思います。
RP:それは嬉しいです。


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