OUTSIDE IN TOKYO
VERENA PARAVEL & LUCIEN CASTAING-TAYLOR INTERVIEW

ヴェレナ・パラヴェル&ルーシァン・キャステーヌ=テイラー
『リヴァイアサン』インタヴュー

3. そこで僕らが遭遇したものこそ宇宙的な“リヴァイアサン”だって気がついた

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OIT:そうなるとどの時点でやりたいことが分かるのですか?
LCT:どの時点とかある瞬間があったのかどうかも分からない。3.11の映画でも、それぞれの瞬間にそれぞれの状況が伴うわけだから。最初の映像を撮り終えて、海と漁業をその不在から喚起させようとしていた。あえて海を見せず、陸しか見せないことでね。地元の者以外に見えない姿を。でも初めて海に出て、初めて嵐を体験し、海と漁業の暴力性と共に、自分たちの存在を小さく感じながら、無力さも感じ、ただ宇宙の法則に身を委ねるしかなくて、何もコンロールできなない状態だってなった。そして映像を見て初めて、ビューファインダーさえ覗けない小さなカメラ(GO-PRO)だったんだけど、謎に満ちた世界が露わになった。そうなるとそれまで撮影してきた全てが平板で退屈で、見たことがあるようなものに思えた。そこで僕らが遭遇したものこそ宇宙的な“リヴァイアサン(伝説の怪物)”だって気がついたんだ。それまでのアプローチと全く違うということも。その瞬間、目の前で体験していることが完全に啓示的な瞬間で、全く予想しない方法で対面しながら理解していることに気がついた。そして映画がまだ完成していないこともはっきり分かった。陸を捨て、それが逆に解放となり、映画完成後も、映画に付随する作業をこなして、例えば映画のアートワークも作ったりしていた。すると驚いたことに『リヴァイアサン』に関わる政治が見えた。でも映画的な要素よりも、芸術的な『リヴァイアサン』のような映画でも、それがどれだけ実験的であっても、いわゆる映画的な、物語で牽引する力と映画的なクォリティーも備わっていた。それは他の芸術にはないもの。僕らは他の芸術に声や表現を与え、人類にスピリチュアルな要素も与え、『リヴァイアサン』でしか垣間見られない、この千年で人類が培ってきた海との関係性をもたらしたんだ。
OIT:そんなものをどうまとめようと思ったのですか?
VP:それはとても難しい質問ね。それは編集のことになるけど、なぜか分からないけど、私にとって編集は完全にコンセプチュアルなものなの。そこで機能し、記憶と感情と説明できない狭間にある“何か”を表現すること。ある啓示的な瞬間、ある発見の瞬間、GO-PROの映像と漁師たちの肉体が体現する瞬間に、そのイメージがどこから来るのかも分からない。意識した視線ではなく、基本的に何かを体現する視線でしかない。私たちを打ちのめした瞬間も、私たちから生まれ、発信されたものじゃないの。それは映画監督のビジョンでなく、海に出ている体験でしかない。そうしたイメージを後の編集で初めて分かる。だからある意味、編集はわりと簡単だったとも言えるわね。親しみやすいもの、すぐに分かってしまうもの、平板すぎて簡単に“海”だと分かるもの。そんなものは何度も見ているし、こっちはただの人間。それで見れば分かるものは省いて、感情や、そこにいる感覚を想起させるものだけを残すことにした。そんな映像を集めながら、人類、動物、海、空、カモメ、船、金属的なもの、または人類/非人類とか、人類の役割とか、どんどんポストヒューマンなものを求めるようになった。もうポストヒューマンとさえ言わないけど、より広く宇宙的なコンテクストに再構成された人間を問いかけたの。そして大きな疑問が出てきた。どこで終わらせるのか。人で始めるのか自然で始めるのか、そこからゆっくりと人に移るのか。それも結局やらなかったけど。ただ流動性は持たせたかった。空、海をかきわける様を、映画を共有する人たちと体験したかった。それでもこれは物語がしっかりある映画らしい映画だという人もいる。ある人は、昼も夜も続く(ただの)労働だと思うことも。でも編集している時はそこまで考えてなかった。もっと大きな命題を追いかけていたから。特にGO-PROで撮影していると普通は対象をヒーローにするでしょ…。
LCT:サーファーやスキーヤーのように彼らの存在を増幅するための。
VP:そう、カメラに映る人はヒーローで主役なの。でも実際に私たちは逆を行った。逆に相対的に扱うことで、人間を最大限に縮小した。編集はそんな感じ。(ルシァンに)何かある?
LCT:僕にはそれ以上うまく言えないな。最初は自分たちが作っていると思っていたけど、陸から離れると分かった瞬間、人類と海の暴力的な対峙を経て、常にそうした経験に曝されていった。でも言葉を使って自問する時、人類、つまり漁師や知っている世界から始めて、どんどんと、進行と共に、より宇宙的で知らない世界へ移行するのか。それとも逆に海や自然界の要素から始めて、どんどん人間を紹介していく方がいいのか。でも最終的にどちらも採らなかった。それはつまり、両方が欲しかったから。人間と根源的/宇宙的な世界がずっと奇妙で原初的に感じられる。知らない世界、乖離した世界。それが最終的な映画になればいいと。人類を違う視点で見つめ、海や世界を違うかたちで認識し、これまで映画で見たことがないような視点で見つめることだった。

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