OUTSIDE IN TOKYO
Ounie Lecomte INTERVIEW

ウニー・ルコント『めぐりあう日』インタビュー

3. 複数の視点、そして、”どのようにして”めぐりあうかのサスペンス

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OIT:そのエリザを演じたセリーヌ・サレットさんが、とても強い感情を内に秘めている感じがよく伝わってきたのですが、それは彼女の、あの深い瞳に出ている感じがしたんですね。そして、エリザが実の母親を探しているという物語の設定があるわけですが、序盤の段階で、アネット(アンヌ・ブノワ)がスクーターに乗ってスクリーンに登場すると、もうその時点で、彼女が母親なのではないか?ということを観客が感じとることが出来るナラティブになっていたと思います。それは監督が意図した通りのことなのでしょうか?
ウニー・ルコント:その通りです。それはシナリオの時点からそのように意図していたことです。映画の中でサスペンス的な要素を出す為に、エリザが色々なことを探したり、調査したりするということではなくて、母親と子どもが巡り会う物語ではあるのですが、むしろ、どのようにして彼女たちがお互いを認知して、溶け合えるのか、という部分においてサスペンス的な要素を残したいと思っていたからです。今回、脚本を書いている時点から、こうすると面白いと思って試みたのは、映画の中では、エリザと息子のノエ(エリエス・アギス)とアネット、つまり、三つの視点から描かれているのですが、観客の方が先に少し進んでいて、ちょっと先のことを知っている、この人たちが親子なんだろうなということはわかっているけれども、じゃあ、彼女たちはどうやってお互いのことを知るのだろう、どうやってお互いのことを認知し合えるのだろうか、という形でナラティブを形成することでした。

同時に、三人の、どの視点にも寄り添える、誰が主人公であるということを特定できなくても良いし、あるいは、三人の内の誰かに寄り添って見るという選択をすることもできる、そして、この二人は親子に見えるけれども、本当にそうなのだろうか?といったサスペンス的な要素を残すことができると思ったのです。一作目の『冬の小鳥』の時は、主人公はこの女の子(キム・セロン)で、この娘に寄り添っていれば、物語はとても直接的に分りやすいというものでしたけれども、今作では、三人の内の誰かに寄り添うこともできるし、第三者として少し遠くから俯瞰して見ることもできる、そうした解釈の自由度を観客に与えることができると思えたのは、シナリオを書いていて面白かったところですね。

OIT:観客が半歩先を歩んでいるというのは、ヒッチコックのサスペンスの場合でも同じだと思いますが、そのようにして仄めかす手法は、見ていて面白いと思いました。先程、演出に時間をかけたかったというお話がありましたけれども、本作の中でもとりわけエリザとアネットの間にはインティメイトな時間が流れていたとか思います。今回の俳優たちに対する演出は、シーン毎の演出に加えて、それぞれ個別に行うようなこともあったのでしょうか?
ウニー・ルコント:そうですね、役者毎に個別に行いました。一作目の時は、相手は、子どもたちで素人でしたし、通訳を介して話さなければなりませんでしたので、やり方は全く違ったのですが、今回は、多くは大人を相手に、直接フランス語でコミュニケーションを取ることが出来ましたし、それぞれ個性も違いますから、どういう風にコミュニケーションを取るかも役者さん毎に変えていく必要がありましたから、ぞれぞれのやり方で違ったコミュニケーションの方法を築いていきました。

例えば、セリーヌの場合は、心理的なアプローチの部分を凄く望んでいました。ですから、私は撮影に臨む前に、自分自身の経験から、”捨てられた”時の感情はこうだった、ああだっという風に、感情的な部分についてとても多くのことを彼女に語りました。一方、アンヌ・ブノワは、技術的な部分を重視していました。彼女は匿名出産についての文献を沢山読んだりして、入念に準備をしてきました。そして、フランソワーズ・ルブランの場合は、現実的、実践的な部分であらゆる詳細な情報を知りたがりました。身につけている服装から、彼女の金銭感覚(笑)まで、全てのディテールを知りたがったんです。そうしたそれぞれの役者さんなりのやり方がありましたから、その人その人に応じたコミュニケーションを取って演技指導を行いました。


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