OUTSIDE IN TOKYO
Ounie Lecomte INTERVIEW

ウニー・ルコント『冬の小鳥』インタビュー

2. 現実に私を孤児院に連れて行ったのは父じゃなかったけれど、
 私が本当に愛し、喪失したのは父だった。私はその気持ち、つまり感情を映画に移植した

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OIT:あなたの映画を見て、沈黙の中で多くを表していますね。主人公の少女の言葉によるコミュニケーションの不足故に。まあ、それも彼女自身の選択の結果なのかもしれないけど、とにかく、それがとても映画的(な表現)だと思ったんです。
OL:ええ。私はサイレント映画が大好きなの。たくさんしゃべるキャラクターを生み出すのが得意な、とても才能豊かで、偉大な映画作家もいるけど。例えばマイク・リーのような。でもそもそも、私は台詞を書く才能がないの(笑)。なので、静かな人に自然に惹かれる傾向があるのかもしれない。だから、あなたの意見に賛成よ。とても映画的だと思う。沈黙の背後とその先にあるもの。そこでも語られるべきことがたくさんあると思うから。

OIT:そうして、あなた自身の背景から出てきたオリジナルの物語であると同時に、映画的に、そんな物語を紡ぐ過程で、あなたの映像的な感覚を育てた映画は他にありましたか?
OL:そうね、この作品を作る上で、私を育ててくれた映画…、とにかくたくさん見てきたわ。サタジット・レイの『大地のうた』(58)や、たくさんの小津(安二郎)の映画、それにトリュフォーの作品も。でもおかしなことに、映画の製作に入ると、ある意味、自分が想定していた通りには絶対に行ってくれないの。見つけたロケ地は、自分が夢見ていたロケ地とは違ったし、カメラでさえ、本当はフィルムで撮影したかったんだけど、結局、デジタルで撮影することになった。手持ちカメラを多用したかったんだけど、結果的に、フィックスで撮影することが必要になった。なので、自分たちが思っていた通りにはならないものなの。それはこの初めての体験で本当に感じたこと。ある意味、映画自体の作り方があるということ。でもそれは実際にやっている時に発見していくもので、事前にコントロールすることはできないの。もちろん、違う作り方をしている監督はいると思うわ。でもそれは私も自分で作っていく過程でそれを見つけていったこと。それは常に矛盾が伴うの。でも、少しだけ、信じている部分はある。自分が何か誘われるものによって連れて行かれ(笑)うまくいくよう祈るしかないの。

OIT:手持ちカメラではなく、フィックスにしなければなかった理由はなんですか?それで何を達成しようとしたのでしょう?
OL:なぜ手持ちカメラが必要かと思い、なぜ変更せざるを得なかったのか…。何が起きたかというと、手持ちだと、子供たち、つまり子役の子たちにかなり寄らないといけないの。そうなると、(どうしても)カメラマンが目立ってしまい、子供たちのカジュアルな雰囲気を邪魔してしまう怖れがある。カメラが子供たちを追いかけ回すうちにね。逆に、どこかにカメラを据えて、子供たちに自分が動きたいように演技させ、ただ遊ばせていれば、なんとなくカメラを忘れてしまうと思って。おかげでよくなったと思うの。そういう小さなことの積み重ねだったの。

OIT:同時に、あなたが主役に見出した少女(キム・セロン)から、子供の自然さを引き出すより、一人の女優として扱ったと聞きましたが?
OL:まず、彼女はとても才能豊かな女の子で、(既に)女優なの。でも会った時はまだ演技経験はなかった。それが(今度は)私の映画ではないけど、とても有名な韓国人俳優とアクション映画で競演しているの(笑)。どうやって彼女と出会ったかと言うと、私はたくさんの少女たちに会いながら何かを待ってたの。うまく説明できないけど、このキャラクターを体現してくれる少女に出会うために。そしてキム・セロンに会った時、彼女が一番大人だと感じたの。子供に思えなかった。子供って感じがしないし、逆にとても成熟しているの。それは彼女が必要以上に賢いという意味でなく、人として成熟していること。とにかく我慢強くて、絶対に諦めないタイプの子なの。私は彼女のそんな性格が気に入り、この映画の主人公、ジニにとても近いと思った。ジニは妄執的で、頑固で、ある意味、絶対に諦めない頑固さを内包していた。そんなキム・セロンが役にぴったりだと思った。小さなディテールよ。役柄を作り上げるとかの能力を求めていたわけじゃないの。彼女自身がキャラクターのようだったから選んだの。

OIT:また聞くけど、そのキャラクターはあなた自身?それとも、あなたとは違う別のキャラクター?
OL:100%、私ということはあり得ないわ。でもたぶん、私と彼女(キム・セロン)と脚本に書かれたキャラクターの間の存在だと思う。つまり、全てが混ざった状態。

OIT:あなたの距離感はどうでしたか?実際に撮影していて、内面にはあなた自身の記憶があり、自分の物語があり、彼女がそのキャラクターを体現しているという状況に身をおきながら、そこに距離感はあるとは言え、記憶が頭をもたげないこともないのではと思って…。
OL:そうね。ご存知のように、記憶って、ある意味、抽象的なものでしょ?でも感情はそうではない。だから記憶というより、この映画は感情、もっと全体的な感情についての映画なの。例えば、映画のどのシーンをとっても、自分に起きたこととは関係ない。実際に起きたことからすれば、嘘とさえ言えるかも。

OIT:記憶は自分で捏造していくわけですね。
OL:そう。例えば、私の場合、父親ではなかったの。実人生、つまり現実に私を孤児院に連れて行ったのは父じゃなかった。でも私の感情の中ではそうなっていて、私が本当に愛し、喪失したのも父なの。私はその気持ち、つまり感情を(映画に)移植したの。だから撮影の間に何が起きたかという質問への答えだけど、実際、いくつかのシーンの合間に、そんな感情が芽生えたのは確かよ。時々、自分のそんな感情にとても驚いたわ。そして起きていることに真実があるからこそ、自分が対処しきれなくなる。覚えているのは、私もクルーも泣いていたこと。最初の歌の時よ。孤児院を去る子がいて、残された少女たちが2曲歌うところがあるけど、とても感情的なシーンだった。でも逆に、そのシーンが撮れていればもう大丈夫だと確信できた。そこに映画が寄りかかってもイケるという確信が持てたの。


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