OUTSIDE IN TOKYO
OTAR IOSSELIANI INTERVIEW

オタール・イオセリアーニ『汽車はふたたび故郷へ』インタヴュー

2. 映像と音から成っているその全てが、言葉を経ないで理解できるものでなければならない

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Q:80年以来フランスで活動しておられますが、どのようにしてフランス語を勉強されたのですか?映画ではフランス語とゲオルギア語が使われていますが、撮影中に混乱するようなことはありませんでしたか?
OI:残念ながら私は日本語が話せません。でも、一ヶ月日本に滞在したら少なくとも話し言葉は話せるようになると思います。日本の文字は少し勉強しました。漢字が少し書けます。

中国語をすばらしいと思うのは、北京語であっても広東語であっても、発音こそ違えども漢字を介して通じ合える点です。発音が違っていても互いに理解し合える。映画も同じではないかと思います。映画も一種の漢字のようなもの。ですから私の映画において語られるセリフの内容には何の価値も与えていません。全ての観客がそこで話されている言語がわからなくても、話している内容が理解できるようでなければならないと思うのです。映像と音から成っているその全てが、言葉を経ないで理解できるものでなければならないと考えています。登場人物が会話しているシーンを観て、彼らが何を話しているのか、すなわちケンカをしているのか仲がいいのかを観客が理解できるように。私は言葉自体の内容そのものには全く意味を与えていないのです。

ご質問のフランス語についてですが、子ども時代に習いました。今はいたるところで子どもも英語を習うようになっています。英語は耐え難い汚らしい言葉だと思います。昔はみなフランス語を話していました。しかしアメリカ経済が世界中に流出したため、世界中がヘタな英語を話すようになっている。そして彼らは決してジェームス・ジョイスを英語の原典で読むこともできなければ、シェイクスピアも言うまでもありません。こんにちは、さようなら、いくらですか。とりわけ「How much?」は世界中で皆がよく学んでいる言葉です。これらは言語とはいえません。言葉には深さがあるものなので、これらは言語とはいえない。それはとても悲しいことだと思います。

私自身は芥川龍之介の小説を日本語で音読したとき、どのように響くのかが解りません。日本の俳句や短歌がどのように響くのかを知りません。しかしこれらは書かれたモノですから読むことができます。そこには映像があるからです。そこに映像=イメージがあるからです。私はイタリア語、ドイツ語、フランス語、ゲオルギア語、ロシア語、ウクライナ語が話せます。しかしそれらには映像が存在していません。つまりこれらの言葉は読めなければいけないし読んだ際にそれぞれの言葉の後ろにある内容をよくわかっていないといけない。映像ではないからです。

ダンテの神曲の冒頭「星を見るために外に出た(※イタリア語で暗唱)」これは翻訳することができません。これは詩の問題です。詩は翻訳することができない。別の言語に手放すことができない。したがって詩にも限界があります。

文学の翻訳というのは別の才能で、テキストに忠実に他の言語に移し替えるという仕事です。私がとても誇りに思うのは、ロシアの翻訳家たちです。日本文学を美しいロシア語に訳しています。おかげで私は日本文学のことをよく知ることができました。ロシアの翻訳家たちはホメロスの「イーリアス」をロシア語のしかも美しい韻文に訳しています。したがって、私がフランス語ができるのはそういう訳です。私の母語ではありません。


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