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OLIVIER ASSAYAS INTERVIEW

オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス 〜女たちの舞台〜』インタヴュー

3. アーノルド・ファンクのあの映像は、“謎”として私を魅了したのです
 その謎に対して対決したいという欲求からこの物語を語ったのだと思います

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Q:マリアとヴァレンティンがふたりで映画に行くシーンがあります。SF大作を観ていて若い人達は受け入れるけれど、マリアはちょっと見下しているように描かれていたと思います。監督ご自身はハリウッド映画に象徴される大作映画についてはどう思いますか?
オリヴィエ・アサイヤス:あのシーンはとても重要なシーンです。私自身はもちろん二人の双方の意見、両方を持っています。即ち、映画は思想を伝えるものではなく、疑問を誘発するものであり、その点において芸術は弁証法的なものだと私は考えています。映画において二人の人物の対話が出てくる時、作者はどちらに与するものでもなく、先入観なく、両方に自分の思想を入れています。即ち、答えそのものには興味はないのです。重要なのは質問をどういう形で言い表すかです。あのシーンが重要だというのは、ストーリーの展開からすると物語の筋を逸脱しているシーンですが、それ故にとても重要なのです。なぜならば、あのシーンが一番正しい言い方で時間の問題を提起しているからです。マリアの側にとってはいくら自分を改め作り替えていっても無駄であって、かつて自分であったものに絶えずなってしまう。それは、彼女が古典的な養成を受けて女優になった人であって、言わば演劇や映画のヒューマニスト的な歴史に属しています。ですから、いくら現在の若い世代に自分を同一視しようとしてもそれは不可能なことです。若い世代が自分自身のストーリーを観ているように、それを観ることが出来ないんです。スーパーヒーローのSF映画を、それを自分自身のストーリーとして見ることは絶対に出来ないのです。しかしヴァレンティンの方は、ああしたブロックバスターのサイエンスフィクションが好きだとか嫌いだとかいう問題ではなくて、それを観て育ってきている。特にそれに対して意見を持っているわけではない。彼女の歴史の中でそれが彼女の現在であって、マリアにはそうではない、その違いはもはやどうしようもありません。二人の間で行われる議論は皮肉なものであり、美感覚、美意識の問題にもなってきています。これは二人の間の世界の知覚が違うということを示しているのであって、その中で時の経過の問題が語られるのです。


Q:最後に、この映画の雲映画、山映画としての側面について聞かせてください。この雲の映像は、アーノルド・ファンクの山岳ドキュメンタリー映画(『Das Wolkenphänomen von Maloja』(24))から使っているということなんですが、「マローヤのヘビ」という架空の脚本を作る時に着想されたのでしょうか?
オリヴィエ・アサイヤス:それは相互的なものだと思います。たまたまDVDでアーノルド・ファンクの『モンブランの嵐』(30)という短編を観ていました、アーノルド・ファンクは山の映画のパイオニアと言っていいでしょう。映画のほとんど起源のところで、もちろん単純でナイーブなドラマツルギーではありますが、山や雲の映像は素晴らしいものを撮っています。そして1924年に作られたマローヤの雲の現象を『アクトレス 〜女たちの舞台〜』のDVDにボーナス映像として入れました。それに興味を持ったのは、たまたまこの地区をとてもよく知っていたからです。本作では、シルス・マリアの地区が描かれていますけれども、シルス湖の反対側にマローヤという地区があって、あの谷や山をとてもよく知っていたのです。アーノルド・ファンクの映画は、とても純粋なもので、雲や山の頂だけが見えます。そしてそうした部分は時間が支配出来ない部分です。雲や山は変わらず、時間の支配を逃れている。私が知っている通りの風景が、ほとんど一世紀前にアーノルド・ファンクによって撮影されていたということに、非常に感動を覚えました。何か時間の外にあるものの痕跡を芸術が残しているということ。その映画はモノクロですし、技術的条件も当時のものですから、保存状態も非常に悪い状態でしか今には伝わっていません。そうしたことを考えると時間の経過が映画のメディアそのものに書き込まれている、見ている対象ではない、むしろ映画の物質そのものの中に、現実のマチエールの中に時間の経過が書き込まれていると思いました。ですからアーノルド・ファンクのあの映像は実に興味深いものであり、“謎”として私を魅了したのです。この映画を生み出したのはそこから来たと言ってもいいでしょう。この物語を語ろうと思ったのは、そうした謎を解決するには至らないにしろ、その謎に対して対決したいという欲求、しなければならないという必然からこの物語を語ったのだと思います。


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