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OLIVIER ASSAYAS INTERVIEW

オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス 〜女たちの舞台〜』インタヴュー

2. 二人の間の関係は、
 撮影をしている内にフィクションの中で作られていくべきだと考えました

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Q:マリアとヴァレンティンが「マローヤのヘビ」の脚本の本読みをすうちに、ふたりのやりとりが虚実ないまぜになっていき、映画内の現実と芝居の境目が溶けていき、目眩を覚えるような感じを受けました。そのシーンを含めて、頭の中で出来たものを撮影したのか、あるいはその場で組み立てていったところが多かったのか、その辺を聞かせてください。
オリヴィエ・アサイヤス:全て決まっていた部分と、その場でインプロビゼーションになった部分と両方が混ざっています。もちろん、脚本という意味ではきちんと書かれていました。ただし、戯曲の台詞をより自然に流動的なものにしようと私は考えて脚本を書きました。即ち、芸術と日常生活との境界をはっきりさせてはならないと考えたのです。芸術の言葉と日常生活の言葉が異なっているというのは偽りだと思うのです。私が芸術に興味があるのは、実人生とコミュニケーションがある部分に興味があるからです。もちろん戯曲ですから、その戯曲の中での論理があって、決まっている部分がなければならないのは当然のことです。演劇であっても戯曲は演じられるものであって、その内側から変わっていく、演じられることによって変化をしていきます。そうした理由から、私は撮影の時に女優に多大な自由を与えました。日常生活に属する会話の部分においては、クリステンに決まっていた台詞を自分なりに言い換えさせるとか、より自然にするようにということを許しましたし、会話そのものからくるエネルギーで変わっていく部分もありました。そして、映画でインプロビゼーションというと、俳優のインプロビゼーションという風に思いますけれども、私の側でもインプロビゼーションすることがあります。撮影をしている最中に、例えば、台詞の途中にこれを挟んでみたらどうかと提案したりするのです。つまり撮影とは、脚本を使って活きたプロセスで何かを作り上げていくことなのです。もちろん戯曲そのものの台詞は決まっていますけれども、その戯曲のシーンの中でも演じ方は無限にありますので、異なる気分、異なるエネルギーを盛り込むことは出来ます。そうした部分は準備をすることが出来ないもので、撮影の中で起きていることです。二人の女優、演じるもの、解釈するものとしてのクリステンとジュリエットの仕事です。


Q:自由に演じてもらったということですが、逆に女優さん同士でお話し合いをされていたところはありましたか?
オリヴィエ・アサイヤス:お互い知り合いではないのであまり話していないのではないかと思います。彼女たちは、以前には会ったことはありませんでしたし、クリステンもジュリエットも撮影の前日にやってきました、そこで初めて会ったわけです。私は全くリハーサル、稽古をしません、いきなり撮影に入りますので、二人がお互いに知り合う時間はありませんでした。例えば、この映画の冒頭の長い列車の中の二人の対話のシーンなんですが、あれは二日間で撮りました。お互いを知らない状態であの撮影を行ったのです。私はある意味、映画を信頼をしていて、二人の間の関係が撮影をしている内にフィクションの中で作られていくべきだと考えたのです。人工的に実人生の中で二人の関係を作ってはならないと思いました。お互い女優として登場人物を演じている内に、その撮影現場で、フィクションの中で知り合う方がいいと思っていたのです。もっとも、この映画で一緒に仕事をした二人はお互いの仕事を非常に評価をし、その後お互いに対する信頼関係、友情の関係、そして互いに敬愛の念を抱くようになったことは確かです。例えば、撮影の前の晩に、翌日撮るシーンについて私には言わないで二人で話し合ったということもあったでしょう。しかし、そうした仕事もぼんやりとしていて、はっきりしたものではありません。二人の関係から何が出てきたかということでひとつエピソードをご紹介します。それは、クリステンの撮影の最終日だったと思います、ジュリエットはまだあと一日か二日残っていたところで、この二人が対決をする最後のシーンを撮る日でした。その前の晩にジュリエットが私のところに電話をしてきて、クリステンが笑っているシーンがあまりない、彼女はいつも暗いと思うとジュリエットが言ってきたんです。私はそういう印象は全く持っていませんでした。クリステンが出ているほかの映画よりも彼女は微笑んでいる部分が多いし、とても人間的な部分が多いと思っていたんです。けれどもジュリエットが、クリステンが十分に笑っていないというからには彼女が正しいのだろうと思って、それを試してみようと思いました。ところが最終日に残っていた最後のシーンは実は暗いシーンでした。翌日二人が決別をする散歩に出かけて行く前の晩、山荘に帰ってきた夜のシーンです。私が書いた脚本では、あのシーンはとてもメランコリックで悲しいシーンになっていました。でもジュリエットがそういう風に言ったから、これをむしろコメディに変えてみようと思ったのです。言う台詞は全く同じです。ただし、二人は葉っぱの煙草を吸っていて、その為に馬鹿笑いが起きてしまう、そういう風にやってみようと思ったのです。そしてやってみたら上手くいきました、何か違うものが出てきた。それは台詞が変わったのではなく、そのシーンの持っている精神が全く変わってしまって、逆方向に行った。そうすることによって、その状況のより深い、本当の部分が出てきたと思います。これが二人の対話から始まったことです。


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