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OLIVIER ASSAYAS INTERVIEW

オリヴィエ・アサイヤス:オン『夏時間の庭』

2. 映画は現代アートの中で最も適正なアートフォームだと思う

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この映画で、あなたは良き日を懐かしんでいる(もしくは、消えつつある文化の伝統的な側面に価値を見出そうとしている)のですか?もしくは、ヨーロッパが前進すべきだという意味なのでしょうか。
僕が考えるに、歴史はヨーロッパでは動いていないと思う。ヨーロッパは、他のどこかで起きている歴史に対処することにほぼかかりっきりだ。自分のアイデンティティを探しながら、同時に、偉大なる過去のルーツから自らを断ち切ってしまってもいて、必死に自分を再生しようとしながらも、ヴィジョン、価値観、未来を定義する関係性に欠けている。

自分の家族は反映されていますか?こうした環境に育ったことはありますか?
僕はパリの田舎で育った。その周囲は、映画ほどのんびりしたものではないが、自然、野原、森の中にいたのは確かだね。僕には兄弟が2人いる。1人は小説家でパリに住み、親が違うもう1人の兄弟は、ほとんどの時間をハンガリーで過ごしている。僕の父は81に亡くなり、当時、僕はまだアマチュアに毛が生えたような短編を何本か監督しただけの状態だった。母は『夏時間の庭』を撮った前年に亡くなった。僕らはみんな自分たちの生活を持っていて、互いに一緒に過ごす時間はほとんどなかった。でも母はとても独立心が強く、晩年まで自分の仕事に熱心だった(彼女はファッション・デザイナーだった)。だから、それで僕らは罪悪感を感じたことはなかった。

避けられない状態(例えば、家族の立ち位置の違い)を扱っているようですが、家族がどれだけ道徳的であろうと、どの家族も持っている“家族の秘密”で緊迫感を維持していっているような気もします。これについて詳しく話していただけますか?
家族の秘密と言われているものは、実際は秘密でも何でもなくて、それは実際、エレーヌが亡くなるのと同時に消えてしまう。最終的に、実際の秘密よりも、我々は家族の秘密に幻想を抱いてしまうことを描いている。アドリエンヌ(長女)は、エレーヌが自分の叔父と情事を重ねていたと思いたい。フレデリック(長男)は、全くそれを否定している。ジェレミー(次男)はどうでもいいと思っている。結局、それはエレーヌよりも彼らについてより多くを僕らに教えてくれることになるんだ。

次の映画でアドリエンヌを主人公に物語を続けようと思ったのはなぜでしょう?これもオルセー美術館のプロジェクトの一環なのですか?
いや、あれはネット上でのデマなんだ。このプロジェクトは存在しないよ。

撮影監督のエリック・ゴーティエと仕事する利点は何ですか?他の映画との違いという意味でどんな話をしましたか?撮影の絵作りに関して、あなた独自のスタイルを追い求めるということは考えていますか?
そこには常にお金と芸術の疑問が存在する。芸術までが、市場でどれくらいの価値があるか計算される状況。その所有者に対する意味とは関係なく。それは世界的なテーマであり、今は更にそうなってしまっているのが現状だ。

普遍的な映画の核心についてのあなたの定義は?時を越えて映画が生き残っていくのに必要なものは?いい映画にも拘らず、人の記憶から10年で消えてしまう映画をたくさん見てきました。
映画を作り、最善を尽くし、それから自分の生を持つようになり、もうそれ以上はコントロールできなくなる。インスピレーションによって、普遍的な題材に誘われることもあり、自分に近い友人たちも含めて、ほとんどの観客にとって遠い問題であろう、特異で親密な問題を扱うしかない時もあるけど、それしか選択の余地はないんだ。創作に至る奇妙な道はそういうものなんだ。それは子供のようで、大きくなると、それぞれの運命に従うようになる。映画は全ての人のもので、それが長いこと見られるかどうかは自分に決められることではない。とにかく、どっちみちそれを確認できるほど長くは生きていられないものだから。

映画作りで同時代の監督として共感できる人たちはいますか?
フランスに限定するならば、クレール・ドゥニ、アルノー・デプレシャン、ブノワ・ジャコ、アンドレ・テシネ、フィリップ・ガレル。でも映画の兄弟たちは台湾、日本、中国、アメリカ、カナダにもいて、それが誰だか予想するのは簡単だと思う。

どうして映画を作り続けるのでしょう?映画は我々の未来においてどのような役割を演じていくのでしょうか。
映画は現代アートの中で最も適正なアートフォームだと思う。映画は未来の全体像を、我々の精神の鏡として見せてくれるものだと思う。

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