OUTSIDE IN TOKYO
DAMIEN MANIVEL INTERVIEW

ダミアン・マニヴェル『若き詩人』インタヴュー

2. ブレッソンは、新しい映画の可能性を怖れずに発見した、これは驚くべきことです

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OIT:映画的なバックグラウンドについて教えて頂けますか?
ダミアン・マニヴェル:僕は、ダンサーとしてキャリアをスタートしました。ダンス・カンパニーを作って、ショウを演出するようになっていたのですが、ある時、映画こそが僕がやりたいものだということに気付いたんです。映画作りを始める前から、アーティストとして商業的な活動をしていましたから、映画作りもプロフェッショナルとしてやっていけるのではないかと思いました。

OIT:そのきっかけになったような映画はあるのですか?ひとつには絞れないとは思いますが、何か挙げることはできますか?
ダミアン・マニヴェル:沢山ありますね。作品としても沢山ありますが、僕がとりわけ惹きつけられるのは“人”なんです。映画を作っている人たち、生きていても死んでいても同じことです。彼らが、僕に活力とインスピレーションを与えてくれる。もちろん、彼らも大いに苦しんだことを僕も知っていますが、彼らの存在が、自分はひとりではないと思わせてくれるんです。

OIT:それは例えば、どの辺りの映画作家たちでしょうか?ヌーヴェルヴァーグとか?
ダミアン・マニヴェル:実は、ヌーヴェルヴァーグにはそれ程入れ込んだことはなくて、僕の場合は、ロベール・ブレッソンです。同じような愛情を小津の作品にも抱いています。ジョン・カサヴェテスの強烈な情熱に対しても同じ感情を抱いています。ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」は僕にとって特別な一冊です。もちろん、多くの映画監督にとってそうだと思いますが、僕は、その一冊のおかげで“映画”の新しい可能性を発見したんです。ブレッソンは、新しい映画の可能性を怖れずに発見した、これは驚くべきことです。

OIT:ダミアンさんが、ル・フレノワ(ル・フレノワ国立現代アートスタジオ)で学ばれていた時に、もしかしたら、ゴダールがワークショップをしたことがあったのではないかと思うのですが。
ダミアン・マニヴェル:それはまだ僕が入る前のことでした、残念ながら(笑)。ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)が教えた時も僕はその場にいませんでした、ザンネン、僕は彼の作品が大好きなのに。ブリューノ・デュモンの時も僕はいませんでした(笑)。でも、シャンタル・アケルマンとは知り合うことができましたし、アンドレ・ラバルトとも知り合うことができましたから、フレノワでの体験は素晴らしいものだった言えると思います。でも、時に思うのは、自分が敬愛する人と、必ずしも“直接”出会わなければいけないということではない、ということです。ただその人について幻想や理想を抱く、ということでも良いのではないか?“直接会う”ことが必要なのか、僕は懐疑的です。

OIT:ヌーヴェルヴァーグについてはそれ程、というお話でしたが、ダミアンさんの作品は、映画ジャーナリズムでは、トリュフォーの作品と比較して語られることが多いようです。そのことについてはどう思いますか?
ダミアン・マニヴェル:もちろん、ヌーヴェルヴァーグの人たちを僕は素晴らしいと思っていますし、尊敬しています。ただ、映画史においては、あまりにも多くのヌーヴェルヴァーグの後継者がいるんですね。今、この瞬間にも、多くの若者たちがキャメラを手に取って、街に出て撮影をしています。これがインディー映画のスピリッツです。それは、台湾でもアメリカでもロシアでも、世界中のありとあらゆる場所に存在するものです。ヌーヴェルヴァーグには、映画について語り、映画理論について考えるという“コンセプト”があって、素晴らしい映画を生み出しました。僕の映画の場合は、自分で製作も行うインディー映画ですが、“偶然”を大いに活用しています。映画史においては、あまりに多くのヌーヴェルヴァーグの後継者がいますから、僕の映画を特別そのように結びつけることが良いことなのかわかりませんが、確かに、ロメールの映画との関係性は強いものがあると思います。“偶然”や“ハプニング”を活かすスタイルはまさにロメールのスタイルであると言えますから。トリュフォーについても、「アントワーヌ・ドワネルもの」、とりわけ『夜霧の恋人たち』(68)との連想から近親性を指摘されるのはよくわかります。でもそうした傾向は僕の作品に限定されるものではなくて、例えば、日本の映画作家に関しても同じことが言えるはずだと思うんですね。僕の場合は、とにかく、映画を作る人たちを尊敬しているという感じなんです。



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