OUTSIDE IN TOKYO
Catherine Corsini INTERVIEW

カトリーヌ・コルシニ『黒いスーツを着た男』インタヴュー

3. モラルの問題を扱っているので、あえて感情に流される手法はとっていない

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OIT:目撃者の女性(ジュリエット)がどことなく監督ご自身に似ている気がしたのですが、彼女はあなたの何らかの部分を代弁しているのでしょうか?
CC:私は不公正なことにとても感じやすい人間として知られています、つまり、私たちの生きる社会が段々とより厳しいものになってきて、貧しい者を排除しようという傾向にある社会で、私の考えの代弁者としてこの人物を考えていました。モルドヴァ人の女性は怒り狂っています。それはフランス社会に対する怒りです。というのも、フランス社会が(彼女たちに)何も与えてくれないからです。しかも夫が死ぬと、今度は夫の臓器を無料提供しろと言うわけです。そんなことは彼女に耐えられないことです。正直に言うと、私自身はこのモルドヴァ人の女性よりもジュリエットにより近い人間だと思います。ジュリエットは知的で、ブルジョワの快適な生活を送っています。より私に近いのはジュリエットなんです。

OIT:善悪の微妙さというか、よかれと思って人にしたことで、バランスが崩れて、(思わぬ)しっぺ返しをくらうという、善悪の転換がとてもよく描かれていますね。
CC:アルという人物の立ち位置ですが、それまでの自分の地位を何とか保ち、自分が手に入れたものを救いたいと足掻くわけです。でもある時から、全てが変わり始めます。まるで病が伝染するように、モラルの問題が伝染していくのです。すると自分の中で、人としての意識が変わってくる。そうでないふりができなくなってしまうわけです。

OIT:撮影方法として、より開かれているというか、客観性を求めているように感じるのですが、撮影はどのように行われたのでしょう?過度な感情移入を避ける意図はあったのでしょうか。
CC:確かに感情をどっぷりと描くことは、ある意味、不誠実だと思ったのです。観客が判断を押しつけられるようになり、あるシーンでは涙を流すとか、このシーンでは大声をあげるだろうと判断するような状況を避けたかったのです。(まるで)ベールが剥がされるように色々な本音が見えてくるようにしたい。つまり、どうしてもこう思わせたいとか、観客を人質に捕るような撮り方をしたくなかったのです。色々な心の動きを描くことも悪くないのですが、感情に流されるようなことは狙っていません。こういうのは非常に小説的なテーマの場合に使う手法だと思いますが、今回のテーマはモラルの問題を扱っているので、あえてその感情に流される手法はとっていません。ある程度、慎み深く撮ることで、逆にそこに表れる感情が(逆に)大きくなってくるのだと思います。ご存知の通り、映画というのはプロパガンダに使われることもあって、正しくファシストが映画を使ったやり方っていうのはそれに当ります。そうして観客を操作することができるわけですが、それはしたくなかったんです。つまり、サスペンスという味わいを残しながら、(クロード・)シャブロルの言ったように、映画を撮るということは一つの撮り方ではなく、色々なやり方が考えられる、というわけです。

OIT:本作の後の活動をいかがですか?
CC:次は2つの作品の企画があります。1つは今回と全く違う(タイプの)映画で、フェミニズムをテーマとしています。もう1つは、今回のような警察物を考えています。

OIT:フェミニズムの映画はフランスが舞台ですか?
CC:はい、70年代のフランスです。他の男に征服されそうになりながら、何とか苦労してそれを跳ね返そうとする“男”の物語ですが(笑)。
フェミニズムと言いながらも男の物語であるところが、いかにもコルシニ監督らしい。それは、女が主体のフェミニズムでも、男との関係性が常に絡むからだ。そんな状況から生まれるバランスのズレによって、人間の真理が露呈される監督の視線は、もちろん本作にも通じるところだ。社会的な生き物である我々の立場はどこに立つかによって常に変わる。そしてそれは、意図してなくても、意図的であっても、人が道を踏み外した瞬間から突然、露呈することが多い。正直、誠実というものは、嘘、偽善と表裏一体だ。その転換の引き金になるのは、必ずしも悪意とは限らない。だからと言って、やさしさが正義とも言えない。コルシニ監督は、そんな微妙な隙間を覗かせてくれるのかもしれない。


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