OUTSIDE IN TOKYO
CARLOS VERMUT INTERVIEW

カルロス・ベルムト『マジカル・ガール』インタヴュー

2. スペインは歴史上これまでずっと内戦を経験してきました、
 その根本的な理由は、理性と感情の対立だったのです

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Q:人物造形が際立っていてとても面白かったのですが、黒蜥蜴の屋敷で登場する車椅子の紳士が、スペイン人は北欧の頭脳的な理性と、ラテン/アラブの情熱的な感情に流されるものとの間でバランスをとっているという台詞がありますが、ルイスとダミアンのキャラクターが、外見も含めて、ダミアンが北欧的理性の数学の教師で、ルイスが情熱的な文学の元教師という風に造形にされていますね。
カルロス・ベルムト:その通りです。ルイスが文学の先生でダミアンが数学、そこで理性と感情というものの二項対立があります。この二つの要素というのは自分にとってはとても大事なもので、なぜかというとスペインは歴史上これまでずっと内戦を経験してきました。スペインでは戦争というのはみな内戦だったんです、それが宗教でもなく、北と南でもなく、人種でもなく、今まで起こってきたものの本当に根本的な対立理由というのは、この理性と感情、二つのイデオロギーがぶつかってきた証だと思っています。ですので、私の中では、この二つの要素のバランスを取ることが非常に重要だと思っています。

Q:ルイスとダミアンは、世代的には監督の父親の世代なのかなと思ったのですが、この人物造形に監督の父親の世代の印象が関連しているのでしょうか?
カルロス・ベルムト:世代的にはそうですが、今の時代のスペインの若者達も同じ問題を抱えています。今スペインで行われている選挙を見て頂ければ解るのですが、本当に二分しています。でも私の中では敵を作るよりも一緒に何か新しいものを作り上げることの方が大事だと思っています。

Q:今の話は、闘牛の話に繋がっていく台詞だったと思うんですけど、この作品には闘牛を思わせる要素が散りばめられています、例えば、アリシアが入院した時に黒い牛に噛まれる夢を見るとか、ダミアンが出ていく時もマタドールが準備をしているような場面もあります、どのような意図があったのでしょうか?
カルロス・ベルムト:私の中に葛藤があって、闘牛に関しては何て残酷なことなんだろうと思うわけです。わざわざ牛を殺しに行くなんてと思うんですけど、一方で、闘牛に関連すること、例えば音楽のパソドブレだったり、闘牛用のコスチュームであったり、そういうもの見るとドキドキするんですね、感動するわけです、それは自分ではどうしようもないことです。そうした自分の中の葛藤を作品に入れたかったということと、自分の中で思う残酷さとか非人間性というのは、どちらかというとこの作品の中ではバルバラの世界だと思うので、バルバラの世界を象徴するためにその闘牛というモチーフを使ったのです。

Q:先程の目の話も闘牛の話と凄く関連していて、闘牛士が闘牛と戦う時に目を見ちゃいけないのか、目を見るのか、なんかそういう話を聞いたことがあるのと、あと闘牛が終わった後の牛が解体された時に目の肉が一番勇敢さを表しているという話を、『めざめ』(デルフィーヌ・グレーズ/02)という映画で見たことがありました。
カルロス・ベルムト:まさにダミアンがゆっくりと身支度をする、あの感じは闘牛士がみなやることで、彼は牛と闘うようなこころづもりでいるわけです、闘牛士と言えば要するに男らしさの象徴で、牛と戦うために出て行くということは、要はルイスを殺しに行くということですね、でも結局、どちらが牛だったのかといえば、男性性に捉われてしまったダミアン自体が牛だった、そういう循環があの中には隠されています。ちょっと付け加えさせて頂きますと、ダミアンというのは理性の象徴なので、彼はルイスと対峙する時にもう少し頭を使って自分を殺させようとする、そうすると君は刑務所に入るぞという論法でルイスを片付けようとするわけですけれども、結局は本能に従って殺してしまうわけです。だから結局彼の方が知的であるはずなのに、感情に勝てなかった。闘牛では槍を持って牛を殺す女性がいますけれども、アリシアが結局がそれだったというわけです。


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