OUTSIDE IN TOKYO
ABBAS KIAROSTAMI Interview

アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』インタヴュー

2. 君ね、結婚というものは本当に難しいものですよ

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OIT:脚本家のジャン=クロード・カリエールがコピーのダビデ像がある広場のシーンで出演していますね。彼も役者に徹して、脚本の話をするということは全くなかったんですか?
AK:友達なので演じてくれるということでOKしてもらって、その役をやってもらったんですよ。脚本を渡して脚本通りにやってもらったんです。

OIT:彼が出ているからというわけじゃないですが、ブニュエルの映画ですとか、ウィリアム・シメルが演じる主人公(ジェームス・ミラー)が最初は格好良く登場するんですけど、どんどん負け戦に追い込まれていくというような感じで、ちょっとヒッチコックの映画のようにも見えたんですが、そういう見方はどのように思われますか?
AK:男女関係を語るっていうのは最もありきたりなのです。あらゆる事が語られてきているし、新しいものが何一つない、どの話をしても新しくない。だからそれを違うやり方で見せようとして、そういう複雑な道に導いたのだけれども、さもなければ、とても普通なものにしかならなかったでしょう。新しいものがないからです。ヒッチコックといえば、今聞いて考えたんだけれども、ヒッチコックの映画の中の男女関係というのはアンチ家族の方が多いですよね。あまりいい家族を描いたことがない。男が困っているとか、愛の中でごちゃごちゃになって困惑したような男性をけっこう描いてるから、その辺でそういう風に感じたのかもしれないですね。最も難しい関係っていうのは結婚であると思うし、それを愛だけではなく結婚に辿り着くまでっていうのは、本当に難しいセンター試験があってそれをちゃんとパスして、それでも成功するかどうか分んないような世界なので、そこでそうしたことを感じるんじゃないかなと思います。

OIT:原題のタイトルが“認証された偽物”というものなのですが、西洋に対して、それを相対化した視点というのをちょっと感じました。イタリアの歴史の古い街、その街自体が美術品のような街の中で本作は撮影されています。そうした環境で撮影しながらも、全てが美しくという事ではなくて、そういう状態を相対化して、旅人の視点で離れて見ているという視点を感じたんですが、それについてはいかがですか?
AK:イタリア自体を選んだのはそれに当てはまるかもしれない。要するにオリジナルとコピーという話で言えば“イタリア”ということになるわけです。しかし、実際にその場所を選んだ、小さい街を選んだっていうのは、全て色々考えていたイメージ通りのものが小さいながらもセットのように集まって存在しているので、そこで撮りたいと思ったのです。あとは、その街の中には二つの博物館のようなミュージアムがあって、一つは本当はコピーだったんだけどオリジナルとして何十年何百年とそこのミュージアムで飾られていた絵(“トスカーナのモナ・リザ「ジョコンド夫人」”)があるということ、もう一つはゴールドで出来ている木(命の樹)があって結婚するカップルがそこで誓いをするという場所があったことです。ジュリエットはジェームスをそこに連れて行き、本当はオリジナルじゃないんだけれどもオリジナルとして扱っていた絵を見せに行くという話を色々出来るだろうという事、そして、結婚式を挙げたカップルが行って誓いをする、その場所でジェームスは結婚というのはお互いをケアすることであって、それ以外何もない、誓ってもしょうがないっていう話をできるだろうと思ったわけです。実際そういう二つの相応しい場所があって、そういう台詞が言える場所があってその街を選んだのです。

OIT:その“黄金の木(命の樹)”にしてもそうなのですが、監督の映画でよく出てくる“木”が今回も印象的に出てきました。サイプレスの木ですね。ジュリエットが車を運転していく細い道があって、あの辺りからストーリーがツイステッドしていくというか不穏な感じになっていくのですが、そういう意図があったのでしょうか?
AK:それはあなたはすごく良く見てくれて、道がぐにゃぐにゃになる所で複雑な話が始まるというのは、あなたの想像を尊重します。サイプレスの木については、そこを撮ろうとした時はすごく嬉しかった。木がまた自分の映画に現れたという喜びです。わざわざ選んだわけじゃないのですが、撮ろうとした時は嬉しかったですね。ゴールドの木の話については、ちょっと彼女の台詞とは反対の意味になるのだけれども、車の中の会話でジュリエットの妹のマリが本物のゴールドよりもフェイクのジュエリーの方が好きだと言う台詞がありますね。実際そのゴールドの木が後で登場するわけです。あと台詞で、「葉っぱがない庭、枯れ果てた木は誰が美しくないと言ったの」という台詞があって、そこにもまた木が存在しています。その三点で木が私の映画に存在したということが嬉しい。

OIT:その「冬枯れの庭」の詩の事を後でお聞きしたかったんですけど、美しいイランの詩ですけれども、英語で“ウインターガーデン”と言うと現代の芳しくない世界状況を表す時に比喩として言われる事がありますが、そういうところまで関係していたのか、あるいは純粋にイランで詠まれる美しい詩として存在しているのでしょうか?
AK:特に今の状況とは関係はなくて、映画の中で使った通りの意味合いです。私たちは春の蕾って好きだけれども、そのままでいられないですよね。花になって、その後果物になって、その後果物も落ちて葉っぱも落ちる。ずっとその後その後って、その後はどうなるのとジュリエットはネガティブな感じで聞くんだけれども、彼は、その後例えば葉っぱがなくても誰が美しくないと言うの?と言うのです。ジェームスは、年を取っても現実を受け入れるべきだし、その現実は美しいよと言いたかかったわけですね。

OIT:その現実の美しさというのは、2人は口論を重ねて関係がどんどん難しくなっていくわけですが、建物の外に一旦出ると、街では鐘の音が始終鳴っている、現実は難しいけれども彼らの存在自体は祝福されているという感じを受けたのですが。
AK:あなたがすごく美しく語ってくれるから、これ以上付け加えることはないのだけれど、そのシーンの通りで、生きている間っていうのは色んな事がありますね。例えば、教会の鐘は人が死んだ時も鳴ります。だから人は鐘の音を聞くと死を思い出すかもしれない。けれども、それでも死そのものも美しいかもしれない、それは全て受け入れるべきだと思うし、そこに美しさは必ずあると信じるべきだと思う。外に出ると、鐘の音にしてもそうですが、美しいものが必ずある、それを受け入れるべきだと、死が木になってるんです。

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