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FILM REVIEW

『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』


映画において、慎ましく行使される「正義」の美徳について
上原輝樹

クエンティン・タランティーノが『レザボア・ドッグス』(1992)でカンヌ国際映画祭を沸かせ、一躍スター監督の仲間入りをしてから、早くも30年という歳月が経つ。タランティーノはこの30年間で9本の長編映画(『パルプ・フィクション』(1994)、『ジャッキー・ブラウン』(1998)、『キル・ビル』(2003)、『キル・ビル2』(2004)、『デス・プルーフinグラインドハウス』(2007)、『イングロリアス・バスターズ』(2009)、『ジャンゴ 繋がれざる者』(2013)、『ヘイトフル・エイト』(2018)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)、『キル・ビル』2部作を1作と見なしている)を撮っている。30年間で9本というと、それほど多いようには思えないかもしれないが、スクリーンから伝わってくるひとつひとつの作品に注ぎ込まれた熱量の総量は圧倒的だ。30年という歳月が経過した2023年の今、かつて一斉を風靡し、その後もハリウッドの第一線でエネルギーに満ちた作品群を生み出し続けている監督のキャリアを俯瞰してみるには丁度良いタイミングであるように思える。タラ・ウッドが作った本作『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』は、そんな時勢に適った作品である。ただ、後に詳述する通り、邦題が伝えるようとしているイメージ通りのシンプルな映画ではない。

タラ・ウッドは、タランティーノのキャリアを、「革命」、「強い女性&ジャンル映画」、「正義」という4つのキーワードを冠した3部構成で整理し、彼の作品に出演した俳優陣(マイケル・マドセン、ティム・ロス、サミュエル・L・ジャクソン、ロバート・フォスター、ゾーイ・ベル、ルーシー・リュー、カート・ラッセル、ダイアン・クルーガー、イーライ・ロス、クリストフ・ヴァルツ、ジェイミー・フォックス、ブルース・ダーン、ジェニファー・ジェイソン・リー)やプロデューサー(ステイシー・シェア、リチャード・グラッドスタイン)、映画評論家(ルイス・ブラック)といった面々に、タランティーノの演出術や脚本家としての才能、撮影現場で起きた知られざるエピソードの数々を語らせ、タランティーノ作品群からの抜粋映像と様々なフッテージ映像を交えて、一人の作家についての豊かなモノグラフィーを作り上げている。タラは、同様の手法でリチャード・リンクレイターについての作品『21 years: Richard Linklater』(2014)を製作しているが、この作品でも本作同様、監督本人は登場せず、周囲の人々の話から、その人物像とキャリアを浮き上がらせる手法を取っている。



デヴュー作である『レザボア・ドックス』から『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』まで、全てのタランティーノ作品をリアルタイムで経験してきた私のような世代の者にとっては、マイケル・マドセンが『レザボア・ドックス』の撮影時に、「全員黒のスーツを着て来てくれと言われたが、俺は上下お揃いのスーツを持ってなかったから間に合わせの上下を着て行った。黒い革靴もなかったから、カウボーイブーツを履いて現場に行ったが、それがそのまま撮影に使われた。スティーブ・ブシェミなんて、下は黒のジーンズを履いていた」といった裏話を聞かされると、それなりに心をくすぐられるし、ブルース・ダーンの口から、『パルプ・フィクション』の「トラボルタが演じた役は、当初は別の俳優が演じるはずだった」と明かされれば、何故それをブルース・ダーンが語るのか?という疑問が湧くものの、その別の俳優が演じていたら、『パルプ・フィクション』があれ程ブレイクすることもなかったのかもしれないと、マイケル・マドセンには悪いが、そう思わざるを得なかったりもするのである。この映画はそんな懐古趣味的なトリビアに満ちているが、そうした安全地帯に留まっているばかりではない。

タラ・ウッドが挙げた4つのキーワードの中でも、「革命」の章で、タランティーノの登場はフランスに端を発したヌーヴェルヴァーグのムーブメントに匹敵すると、プロデューサーのステイシー・シェアは語っている。全世界の映画に影響を与えたヌーヴェルヴァーグと、タランティーノとミラマックスが成し遂げた米インディーズ映画の快進撃を比肩するのは些か無理があるとは思うものの、「強い女性&ジャンル映画」と「正義」というキーワードに関しては、タランティーノ作品の本質を表した言葉であることに異存はない。『ジャンゴ 繋がれざる者』で主演を務めたジェイミー・フォックスは、「僕の母親はいつも黒人とデートしていて、母に気に入られようとした彼らは、僕らをブラックスプロイテーション・フィルムに連れて行った。だから、僕の映画のキャラクターたちはいつでも強力なんだ」とタランティーノが語ったことを明かし、『キル・ビル』でユマ・サーマンのスタントを務めた後、『デス・プルーフinグラインドハウス』で主演女優陣の一役を担ったゾーイ・ベルは、「クエンティンは、女性は敬うべき存在で、黒人と白人は平等、という考えが真実だということを知っていた。誰かに教えられたのではなく、育った環境で自然に育まれたものだから、彼の作品のキャラクターにはリアリティがある」と語る。実際に、『ジャッキー・ブラウン』を見たゾーイの友人の女性は、パム・グリアが演じたキャラクターがあまりにも身につまされるリアリティを湛えていたために、「この監督の中には女性が居るとしか思えない」と興奮気味に語ったのだと言う。



タランティーノが創り出すキャラクターのリアリティについてはまさにその通りだと思うが、ゾーイ・ベルと映画評論家ルイス・ブラックが、「強い女性キャラクターが毎回登場するのは、クエンティンにとって自然なことだった」と語った流れで、タランティーノをフェミニスト的な映画作家として映画史の中に位置付けようと試みている点については、一旦の留保が必要だろう。このことは、タランティーノ作品における「正義」の行使の“度合い”と密接に関係している。タランティーノ作品において行使される正義は、それが慎ましければ慎ましいほど素晴らしく、タランティーノは長編作品2作目である『パルプ・フィクション』にして既に、慎ましい正義の行使の洗練を極めている。それは例えば、ボクシングの八百長試合で裏金を受け取りながらも対戦相手を殴り殺してしまったブッチ(ブルース・ウイルス)が、危機に陥った八百長の元締めであるギャングのマルセル(ヴィング・レイムス)を救うために一旦逃げ出した修羅場に舞い戻ることを決心する瞬間の心の動きを見事に捉えたショットであったり、プロの殺し屋のジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が、偶然居合わせたダイナーで、強盗を思いついたパンプキン(ティム・ロス)とハニー・バニー(アマンダ・プラマー)の素人カップルを血の海に沈めなかったことで自らの贖罪を果たす、椅子に座したままの見事なアクション・シークエンスを想起してみれば充分だろう。

ところが、そうした慎ましい正義の行使は、『キル・ビル』を契機にバジェットの拡大と正比例するかのように巨大商業モールのように大規模化していき(『パルプ・フィクション』が 850万USD、『キル・ビル』、『デス・プルーフ』が3000万USD、『イングロリアス・バスターズ』7000万USD、『ジャンゴ』、『ヘイトフル・エイト』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』約1億USD)、事態はもはや“正義の行使”というよりは、大規模な“復讐テーマパーク”の様相を呈していく。そこでは、ドラマティックで強力な“復讐劇”を描くことが最初から目的化され、やがて展開することになる凶暴な復讐アクションを正当化するために、例えば『キル・ビル』であれば、冒頭から主人公のブライド(ユマ・サーマン)が陰惨を極める過度な暴力に晒されるしかないことが予め決められている。この復讐モチーフは、本作でも指摘されている通り、香港アクション映画の意匠を拝借したものに違いないが、ショウ・ブラザース製作のキン・フー監督作品の場合でも、主人公の武術の使い手(女性)がここまで陰惨な目に遭わされるということは類例がないように思う。作劇上、最後には彼女が勝利を収めるにしても、女性主人公に対して、これほど陰惨な暴力描写に精力を費やされた作品にフェミニズム文脈で評価を与えるのは土台無理な話である。この点については、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の日本公開に時期を合わせて、2019年9月に刊行された雑誌『ユリイカ』のタランティーノ特集号に掲載されている鷲谷花氏の「破壊創造神 21世紀のクエンティン・タランティーノ監督作品における「フェミニズムのフェティシズム」」という論考において、“女性が行使する/される暴力は、当の女性解放のためというよりは、作者である男性自身の欲望のために描かれているのでは?”という問題提議を改めて確認する必要があるように思う。

タラ・ウッドがタランティーノを“女性の味方”として描きたかったのには、明白な理由があることは、今や誰の目にも明らかだ。『レザボア・ドッグス』がカンヌに旋風を巻き起こした後、全米配給に手を挙げたのが、『セックスと嘘とビデオテープ』(1989)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)のヒットで勢いを得ていた、ハーヴェイ&ボブ・ワインスタイン兄弟が率いるミラマックスだった。それ以来、ワインスタイン兄弟とタランティーノのコラボレーションは、ハーヴェイ・ワインスタインが業界を追放される2017年まで続き、ワインスタイン兄弟がミラマックスを退社した後に設立した会社、ワインスタイン・カンパニーが製作した『ヘイトフル・エイト』まで、25年の長きに亘った。ハーヴェイ・ワインスタインの女優たちに対する性暴力とそれに伴う隠蔽工作は、ネットでの告発に端を発した「# Me Too運動」の激しいうねりを経て、司法の手で裁かれ、ワインスタインが刑務所に収監される事態に至っているが、映画監督とプロデューサーという親密な関係を25年間に亘って築いていたタランティーノにも、当然のことながら批判の矛先は向けられた。タランティーノは、自らの認識の甘さを反省するコメントを発表し、『ヘイトフル・エイト』を最後にワインスタイン兄弟との長年の関係を清算、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では新たにソニーが資本参加する形で製作が進められた。



本作は、ワインスタイン問題が発覚し、「# Me Too運動」がハリウッドを席巻し、ワインスタインとの関係が取り沙汰される最中に制作された作品であり、タラ・ウッドが、この作品の中でワインスタイン問題に触れないという選択肢はあり得なかった。従って、最初の企画段階ではタランティーノの30年に亘る華々しいキャリアを祝祭的に描き出す狙いがあったであろうはずの本作が、少なからぬ軌道修正を余儀なくされたことは想像に難くない。しかし、本作でも取り上げられている通り、『キル・ビル2』の撮影でユマ・サーマンが首と膝に生涯残る損傷を負ってしまった事故を揉み消そうとしたハーヴェイ・ワインスタインと、中々事故の責任を認めようとしなかったタランティーノとユマ・サーマンの対立は、2003年頃には起きており、ハーヴェイ・ワインスタインのブラック体質も周囲では既に早い時期から知られていたはずなのだから、タランティーノのキャリアを総括する上でも避けては通れない問題は、当然のことながら、「# Me Too運動」が始まる前から“既に”存在していたということになる。その後、事故の責任を認め、撮影時の証拠映像を公開し、この事故は自分の生涯の中でも最大の汚点であると後悔の念を表したタランティーノとユマ・サーマンは和解を果たしているが、ユマは今でも、ハーヴェイ・ワインスタインと3人のプロデューサー(本作に登場する二人のプロデュサーは、この中に含まれていない)のことは決して許さないと断じている。タラ・ウッドは、本作でこの一件を取り上げ、その日にたまたまスタントマンが不在だったことから、ユマが自分で車の運転をすることになったと描いているが、ユマは、タランティーノが、リアリティを出すために、自分で車を運転するように強引に演出したと証言している(https://rockinon.com/blog/nakamura/172917)のだから、両者の主張にはニュアンスの隔たりがある。つまり、この点に関して言えば、タランティーノに有利な印象操作が行われており、この作品で語られていることをそのまま鵜呑みにするわけにはいかないということだ。それでも、ワインスタイン問題に関しては、ワインスタインの周囲にいて、彼の犯罪行為に関わったり、隠蔽工作に加担したりしたことで自らの権益を広げた者たちの存在が未だに明らかにされていないということを、タラは本作の中で指摘している。一度奪われた本作の著作権を自らの手に取り戻すために、ワインスタインと裁判で闘って勝利したタラ・ウッドならではの指摘だと言える。一連のワインスタイン問題は、今尚、現在進行形でタランティーノのキャリアに暗い影を投げかけている。

そのようにワインスタイン問題とタランティーノの映画作家としての“欲望”の問題を鑑みた上でも本作が興味深いのは、本作冒頭でプロデューサーのステイシー・シェアが、タランティーノはまず“小説”を書き、それを脚色して“脚本”にして映画を撮る、と語っていることだ。後に数人の俳優も、タランティーノの脚本はまるで“小説”のようだと、ステイシーの発言を裏付ける証言をしている。ティム・ロスは「『パルプ・フィクション』の撮影現場で作られた “レッド・アップル” というタバコは、その後、『ヘイトフル・エイト』に再登場する」と指摘し、『レザボア・ドッグス』のヴィック・ヴェガ(Mr.ブロンド/マイケル・マドセン)と『パルプ・フィクション』のヴィンセント・ヴェガ(ジョン・トラボルタ)は、タランティーノの頭の中では“兄弟”という設定なのだというトリビアも明かされている。つまり、今まで作られてきた9本の長編映画は、タランティーノのユニバースの中では、ウィリアム・フォークナーの「ヨクナパトーファ」や中上健次の「路地」のように、全てが有機的に繋がっているのかもしれない。『スターウォーズ』やマーヴェル・ユニバースにはまるで興味のない私だが、タランティーノ・ユニバースが総動員されたサーガならば是非見てみたいという気がする。ただし、その際には、“正義”の行使は程々の慎ましさに留めて頂きたいのだが。



本作で紹介される、『デス・プルーフ』で猛スピードで走る車のボンネットに張り付いたゾーイ・ベルを撮影した時のエピソードが素晴らしい。無事に撮影が終わったと安堵していたゾーイ・ベルのところにやってきたタランティーノは、あろうことかシーンの撮り直しを命じる。それはこだわり過ぎだ、と反発するゾーイにタランティーノは応える。「完璧なスタントだったけど、一つだけ重大な問題がある。君の顔が一瞬も映っていないんだ。君の顔が映っているということが一番重要なことだから、これだけは譲れない。」職業柄、常にスタントウーマンとして撮影に臨んでいたゾーイは、自分の顔がキャメラに映らないように、無意識の内に、肘や髪の毛で顔を隠していたのだ。ナチスを劇場で焼き払うのは映画的虚構としては良いとしても、奴隷農場が血の海に沈む残虐コリオグラフィーや、病的なヒッピーをガスバーナーで焼き殺す大円団よりも、このように慎ましい正義を大スクリーンで行使するタランティーノの勇姿を今一度見てみたいものである。






『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』
原題:QT8: The First Eight

8月11日(金・祝)より全国公開

監督:タラ・ウッド
製作:タラ・ウッド、ジェイク・ゾートマン
撮影:ジェイク・ゾートマン
出演:ジェイク・ゾートマン、ブルース・ダーン、ジェイミー・フォックス、サミュエル・L・ジャクソン、ジェニファー・ジェイソン・リー、ダイアン・クルーガー、ルーシー・リュー、マイケル・マドセン、イーライ・ロス、ティム・ロス、カート・ラッセル、クリストフ・ヴァルツ

2019年/アメリカ/カラー/101分/R15+
配給:ショウゲート

『クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男』
オフィシャルサイト
https://qt-movie.jp/