OUTSIDE IN TOKYO
FILM REVIEW

『フェラーリ』マイケル・マン

輝かしい栄光の影に蠢く、掛け替えのない苦闘の日々の記憶のために
上原輝樹

イタリア北部の小都市モデナを舞台に、エンツォと妻ラウラの二人が共同で立ち上げたフェラーリ社の経営が危機に瀕した1957年の4ヶ月間の苦闘の日々を描き、創業者エンツォ・フェラーリの複雑な人間性を浮かび上がらせる本作は、「エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像」(1991年/ブロック・イェイツ著)を脚色したトロイ・ケネディ・マーティンの脚本をベースに、1967年にフェラーリ275GTBの実物を目にした時以来、何らかの形での映画にしたいと夢想していたマイケル・マンの念願が叶った作品だ。“フェラーリ”という題材からして、『グランプリ』(1966)や『栄光のル・マン』(1971)、あるいは、マン自身が製作陣の一人として名を連ねた傑作『フォードvsフェラーリ』(2019)といった“レース映画”を想像させるが、映画を見れば明らかなように、『フェラーリ』はスポーツ・アクションといったジャンル映画の括りでは収まらない、その“重さ”にたじろぐしかない濃厚な人間ドラマである。

映画は、アダム・ドライバー演じるエンツォがまだ眠っている子ども(ピエロ)と母親(リナ/シャイリーン・ウッドリー)の寝顔を見てから、物音ひとつ立てずに邸宅を後にし、自転車に乗るようにして小ぶりのプジョー403のドアを開けたまま片足で勢いをつけて車を動かし、玄関から大分離れた所まで漕ぎ着けたところで車に乗り込み、エンジンを掛け、手動のクラッチでギアチェンジを行い、加速して立ち去る様を、端正なカット割りで描き出すオープニング・シークエンスから始まる。フェラーリーとは同郷のライバル関係にあるマセラティのエース・ドライバーがモデナに到着したことを告げる電話を受けた、ペネロペ・クルス演じる妻ラウラは、その事を内縁の妻の郊外の邸宅から朝帰りした夫エンツォに告げた後、手にしていた拳銃をエンツォの方に向けて一発打ち放つ。モデナ市街に位置するフェラーリ家の高級アパートメントに銃弾の響音が鳴り響き、騒動を聞きつけた母親(ダニエラ・ピッペルノ)は「ラウラに銃を与えるなんて、ドイツに再武装を許すようなもの」と嫌味を言う。エンツォの父親である夫と、エンツォの兄である長男を先の大戦で喪っている彼女は、カーレースという「死と背中合わせの情熱(deadly passion)」に突き動かされた職業に人生を賭けたエンツォの生き方を認めておらず、「私は間違えた息子の方を戦争で喪った」とすら呟く姿を私たちは目撃することになるだろう。



モデナに到着したマセラティのエース・ドライバー、ヴェーラは、早々にコースレコードを叩き出し、フェラーリも新記録を更新すべくエンツォはドライバーを焚きつけるが、敢えなくクラッシュしてドライバーを死なせてしまう。かつて自らがレーサーとして活躍していた頃、親友の二人をレースで失って以来、心に壁を作ってきたのだというエンツォは、眉一つ動かさず、活躍著しい新ドライバー、デ・ポルターゴ(ガブリエル・レオーネ)と契約を結ぶ。この映画は、一ジャンル映画の枠に収まるものではないと前述したが、事実、マン自身がフェラーリの所有者であり、『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)以来、友人付き合いをするようになったダニエル・デイ・ルイスとはバイク・レースに興じる間柄でさえある(※1)のだから、レース・シーンに力が注がれていないということでは全くなく、重厚な人間ドラマの中にも、マイケル・マンの真骨頂とも言うべき、カー・アクションが存分に描かれた作品であることは既に周知されている通りである。

特筆すべきは、撮影監督エリック・メッセーシュミットによるドライバー視点で見せるPOV手持ちカメラの演出で、ハイスピードで競う車同士を捉えるショットの連なりが、レースカーが発する爆音と共に見る者にその場に居合わせたかのような臨場感を味あわせてくれる。マンは、この“爆音”の録音に強いこだわりを持っていて、カーレースという狂気を孕んだ競技を象徴するこの音を、“パワフルで、恐ろしく、そして、美しい”と形容しているが、この言葉はまさに、主人公エンツォの危険を顧みない人生に自己を投影したマン自身も魅入られている「恐ろしい喜び(terrible joy)」、そのものを言い表していると言って良い。マイケル・マンの映画(『ヒート』1995、『コラテラル』2004、『パブリック・エネミーズ』2009 etc.)を見てきた者ならば誰もが、この『フェラーリ』の中に、そのロマンティシズム溢れる映画的記憶を想起するトリガーを見出すに違いない。『ヒート』のニール・マッコリー(ロバート・デ・ニーロ)とヴィンセント・ハナ(アル・パチーノ)の“どちらか一方が必ず倒されなければならない”宿命的な対決は、本作では、フェラーリのデ・ポルターゴとマセラティのヴェーラとの対決として蘇り、一台しか通れない狭い道をどちらが先に抜けることが出来るのか、すなわち、先にブレーキを踏んだ方が負ける、“どちらか一方しか生き残れない”命知らずの賭けにレーサーを追い詰める。



ここで新記録を出すマセラティの車体は、当時のレプリカではなく、ピンク・フロイドのドラマー、ニック・メイソンが所有している“本物”である(※2)というから、マンがこの映画で、当時から街の3分の2が今もそのまま残っているというモータースポーツの歴史にその中を刻むモデナの街で、1950年代のレーシ・シーンを再現するために注いだ情熱は並ではない。マンのフェティシズムに呼応するかのようにマシンの美しいフォルムを捉えるメッセーシュミットの撮影も冴え渡っている。それでも尚、この映画が“レース映画”という一ジャンルに収まり切らないのは、マンの父親の“はとこ”にあたる、あのソール・バスがカー・アクションをデザインした『グランプリ』は、確かに素晴らしい“レース映画”だが、そこには何の“物語”もないと強烈な不満を抱いていたマンが、カーレースを主題にした映画を撮るからには、力強く、純粋にパーソナルな“物語”をエンジンに持った作品でなければ創る意味がない、とプロジェクトに着手する前から考えていた(※2)からに他ならない。

この強烈に力強く、純粋にパーソナルな“物語”とは、まずはひとまず、本作の主人公エンツォの毀誉褒貶に晒された人生の物語であると言って差し支えない。レーサーから、レース・カーの設計者に転身し、後にイタリア屈指の自動車メーカーにまで成長する会社を立ち上げたエンツォの野心は、「ジャガーは売るために速く走る車を作るが、フェラーリは速く走るために車を売る」のであり、“レースで誰よりも速く走ること”、そのものにあったが、「レースにポルトガル一国の国費と同額の資金」を投入するフェラーリ社の経営を続けるには、1年に400台のフェラーリを売らなければならなかった。前年に売れたのは僅か98台に過ぎず、経営者であるエンツォにはフォードやフィアットといった自動車産業の巨人と提携して、この難局を乗り切りことが求められていた。エンツォは、そこでイタリア全土1000マイルの公道を走破する最大のレース「ミッレミニア」で優勝することで、フェラーリの価値を上げ、巨人たちと対等に渡り合う条件を獲得すべく、起死回生を掛けた勝負に挑むのだった。



そうしたエンツォを中心に据えたフェラーリ社の命運を賭けた物語と並行して、マイケル・マンがより一層の細心さで描いているのは、このスポットライトを浴びた主人公の人生の影で、彼の子どもを育てた二人の女性の存在である。ひとりは、シャイリーン・ウッドリーが演じるリナ・ラルディ、離婚が認められていなかった当時のイタリアで、エンツォの心の支えとなって、息子のピエロを育て上げた女性だ。リナは婚外子であるピエロを少しでも早くエンツォに認知して欲しかったが、彼女の願いの前には幾つもの障壁が立ち塞がっていた。それでも、リナはエンツォと息子ピエロを愛し、愛される幸福な関係を築いていたという意味では、妻のラウラよりも遥かに幸福な存在に見える。エンツォとラウラの夫婦には、愛する一人息子のディーノがいたが、彼は、この映画の舞台となった1957年の一年前に、筋ジフィストロフィーという難病を患って24歳の若さでこの世を去っている。人間にとって、最大の不幸は、自然の摂理に抗って親よりも子が先に亡くなることであり、この喪失は何を以っても替え難い。

リナとピエロの存在をラウラも知る処となり、オペラの観劇に赴いたエンツォが、ヴェルディ『椿姫』第三幕の「パリを離れて」に触発されて過去を回想する場面がある。マジカルな美しさでペネロペ・クルスが演じる若き日のラウラと、まだ赤ん坊のディーノと共に過ごす和やかな時間は、エンツォの中で、美しい過去への郷愁として永遠に生き続けていくに違いない。しかし、現実の世界では、かつて愛し合った二人の愛は冷え切り、最愛の子どもは失われてしまった。二人は、毎朝、ディーノの墓を訪れ、亡き息子と言葉を交わすが、夫婦が並んでそこに立つことはなく、二人はそれぞれで孤立しており、互いに助け合うことはない。それでも二人は、経営の危機に瀕しているフェラーリ社のビジネス・パートナーとして、限界ギリギリのタフなネゴシエーションに心を削りながらも、自らを投じていく。そこには、この二人の間でしか生じ得ない、特別な“業”があるのだ。



マイケル・マンは、この複雑にして辛苦に満ちた関係を、時に秀逸な捻り(世の中にあれ程間抜けな銀行員がいるのであれば、水原一平氏の横領事件を成立させた違法送金もさぞかし容易だったろうと思わせる)を加えながら、容赦なく描いていくが、この映画の中でも、最も素晴らしい台詞はペネロペ・クルスに託されている。それは、フェラーリが「ミレッミリア」で致命的な惨事を引き越した後、窮地に陥ったエンツォにラウラが投げ掛ける言葉だ。この映画のエンジンが駆動し始めることを告げる号砲は、レース・カーが発する爆音ではなく、ラウラがエンツォに向けて発した銃声であったことを想起してみれば、本作の真の主人公はペネロペ・クルスが演じるラウラであると言っても過言ではない。リナとエンツォはピエロという希望の光に照らされているが、ラウラには、ディーノを愛した記憶と、ディーノのために闘った苦しみの記憶しか残されていない。マイケル・マンがこの映画で何よりも陰影豊かに描いたのは、過酷な闘いに費やされた、夫婦の辛苦に満ちた日々の記憶だった。美しいロマンティシズムの時が過ぎ去った後、人生の坂道を降りてゆく時に体験する物語ほど、人の心をうつものはない。






『フェラーリ』
英題:Ferrari

監督・製作:マイケル・マン
脚本:トロイ・ケネディ・マーティン
原作:ブロック・イェイツ
出演:アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス、シャイリーン・ウッドリー、サラ・ガドン、ガブリエル・レオーネ、ジャック・オコンネル、パトリック・デンプシー

(C) 2023 MOTO PICTURES, LLC. STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

2023年/アメリカ/英語・イタリア語/カラー・モノクロ/スコープサイズ/132分
配給:キノフィルムズ

『フェラーリ』
オフィシャルサイト
http://www.ferrari-movie.jp



































































































(※1) Jonah Weiner “Michael Mann’s Damaged Man”, The New York Times Magazine July 20, 2022






























































(※2) Nick James “Citizen Chicane”, SIGHT AND SOUND Winter 2023-24