OUTSIDE IN TOKYO
FILM REVIEW

『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』



ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの2作目『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』こそが彼らの最高傑作であると信じて疑わない者にしてみれば、ジョン・ケイルが1968年にバンドを去って以来、中心人物であったルー・リードとの確執が伝えられていた二人が、1987年のアンディ・ウォーホルの逝去に際し、とても真摯に反応して、数十年振りに共同作業に身を投じてみせたことは、ちょっとした事件だった。彼らは、追悼アルバム『ソング・フォー・ドレラ』の制作に取組み、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック(BAM)で全曲を演奏するライブを三日間に亘って行った。1990年のことである。それから30年を経た今、『ソング・フォー・ドレラ』のレコード・ストア・デイズ(RSD)限定の2枚組レコードがリリースされ、ピッカピカの『ソング・フォー・ドレラ』が私の手元にある。

時を同じくして、今まさに『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』という映画が公開されようとしているのは、偶然以外の何ものでもないと思うが、『ソング・フォー・ドレラ』の冒頭1曲目、ペンシルバニア州ピッツバーグの田舎町から大都会ニューヨークに出てきたウォーホルの出自について歌った「スモール・タウン」という曲が、『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』を見た後では、まるでカポーティの出自について歌ったものであるかのようにリンクして聞こえてくるのもまた、否定し難い事実である。そもそも、『ソング・フォー・ドレラ』というアルバムは、ウォーホルと生前に親しかった(といっても主な親交はヴェルヴェッツ時代の60年代に限られていたようだが)ルー・リードが、ウォーホルがかつて語ったであろう言葉や特有の言い回しを取り込みながら、ジョン・ケイルと共に創作した”フィクション”のウォーホル像であることは最初に補足しておいた方が良いのかもしれない。



「スモール・タウン」では、「デコボコの肌で、近眼で、ゲイで、太っちょ」だった若き日のアンディが、地元ピッツバーグの田舎町で奇異な目で見られ、父親のように工事現場で働く仕事が自分に向いているとも思えず、一刻も早くこの小さな町から逃げ出したいと願うさまが、ルー・リードならではのスポークン・ワード・スタイルで歌われている。それだけでも、両親が離婚し、子供の頃からルイジアナ、ミシシッピ、アラバマなどアメリカ南部の田舎町を転々と暮らしていたカポーティの出自との類似を想起させるものがあるが、この曲では「僕はピッツバーグ出身のダリじゃない 舌足らずの可愛いカポーティでもない 僕のヒーロー ああ、彼に会えると思うかい? 彼の家の玄関先でキャンプをはろうかな」というウォーホルのカポーティへの憧憬があからさまに描かれている。ゲイで冴えない外見の持ち主であった若き日のウォーホルにとってカポーティは、若くして”小説家”としての才能が認められ、その時代としては珍しくゲイであることを公言し、外見も美青年として持て囃された憧れの”ヒーロー”だった。

私はたまたま、3年間弱のニューヨーク滞在中に、3日間に亘ってBAMで上演された『ソング・フォー・ドレラ』を体験する幸運を得たのだが、ここで触れておきたいのはそのことではなく、アメリカにおける強烈な”ルッキズム”の存在である。”ルッキズム”は自明のものとして、アメリカ白人層に広く行き渡っており、しばしば、それはレイシズムを伴って、対象に対する侮蔑の言葉として発せられる。例えば、”midget=小人”という言葉には明らかに侮蔑的な意味が込められているが、私はニューヨークの街角で、ただ単に背が低いだけの東洋人に、通りすがりの白人男性がその言葉を薄ら笑いを浮かべながら投げかけるという場面に何度か出喰わしたことがある。大都会のニューヨークですらこの有様なのだから、田舎町で”少し変わった”外見をしていたら、一体どれほど不愉快な視線に晒されることか、推してる知るべしである。「デコボコの肌で、近眼で、ゲイで、太っちょ」だった若き日のアンディが体験したことのリアリティは「スモール・タウン」で如実に表現されている。


『ソング・フォー・ドレラ』ルー・リード&ジョン・ケイル

しかし、アメリカという社会が面白いのは、そうした”攻撃”に対して人々が黙っていないところにある。映画批評家ジャン・ドゥーシェは、グリフィスの『イントレランス』(1916)に因んで「アメリカという社会はまさに”イントレランス/Intolerance=不寛容、不服従”の社会である(それに倣って言えば、日本はその逆で”トレランス/Intolerance=忍耐”の社会であると言える)」との名言を残しているが、”スモール・タウン”で不愉快な視線の攻撃に晒されたアンディは後年、大都会ニューヨークに脱出して、アーティストとして名を成すと、ダウンタウンに<ファクトリー>という来る者を拒まないオープンハウス・スタイルのスタジオを創り、”スモール・タウン”では暮らしていけない都市のアウトサイダーたちに庇護を与えたのだ。そのアウトサイダーの一群の中にヴェルヴェッツのメンバーもいた。

一方、カポーティは、19歳の時に書いた『ミリアム』(1945)でO・ヘンリ賞を受賞、『遠い声 遠い部屋』(1948)で本格的に作家デヴューし、『ティファニーで朝食を』(1958)、『冷血』(1966)で名実ともに大成功を収め、名声を確立した。カポーティが6年間に亘る取材の末書き上げた『冷血』は”ニュージャーナリズム”の先駆的作品として今なお高評価が揺るがない作品だが、『冷血』の完成を記念してニューヨークのプラザ・ホテルで行われたカポーティ主催の「白と黒の舞踏会」には、各界のセレブ540名が招待され、カポーティは勝利の美酒に酔いしれた。その540名の招待客のリストにはアンディ・ウォホールも含まれており、当時のウォホールは、すでの”ポップアート”の旗手としてモダンアート界で中心的な役割を果たした後、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデュースを務め、彼らのライブ活動を支援したり、<ファクトリー>に訪れる面々をフィルムで撮影して、後に『チェルシー・ガールズ』として発表されることになる映画製作に力を入れているところだった。その<ファクトリー>を訪れる面々の中にはカポーティの姿もあり、まさにこの時代のニューヨークで二つの才能は交わっていた。アンディの祈りは叶えられていたのだ。



しかし、作家としてのカポーティの活動は『冷血』を頂点として、下り坂を辿っていく。伝説の「白と黒の舞踏会」で味わった美酒の味は止まるところを知らず、カポーティの人生を支配していき、気づいた頃には、作家というよりはテレビタレントと化していた。カポーティが、現代版の『失われた時を求めて』を書くのだ、と事ある毎に吹聴していた幻の新作の顛末については、今までも諸説推測されてきた通りのことが、本作でも”真実のテープ”を基にほぼ同様の推測がなされている。ただ、一つ言えるのは、この映画の作り手イーブス・バーノーは、カポーティに対して大変好意的で、楽観主義的であるということだ。もっとも、対象に対して愛を注いで、一つの映画を作り上げようとするからには、映画が楽観的なものになるのは、物事の道理であって、圧倒的に正しい。

そして、イーブス・バーノーは、この映画を見る者に心暖まるプレゼントを用意してくれている。それは、イーブス・バーノーが語りの巧者であることの証でもあるだろう。カポーティは、ファッションモデルを経て衣装デザイナーになった、彼の養女ケイト・ハリントンに「日記を書き続けるように」とアドバイスを与え、彼女はその教えを守り日記を書き続けた。その理由を聞かれたカポーティは「あまにも移り変わりの激しい人生の中で自分を見失わないために」と答えたという。このシーンに至るまでの、イーブス・バーノーのナラティブが実に美しく、心を打つ。それにしても、カポーティは、養女に与えた素晴らしいアドバイスを自分では実行していなかったのだろうか?アンディ・ウォーホルにも『ウォーホル日記』(原題:POPISM)という素晴らしい日記文学の書があるというのに。






『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』
原題:THE CAPOTE TAPES

11月6日よりBunkamuraル・シネマほか全国ロードショー

監督・製作:イーブス・バーノー
出演:トルーマン・カポーティ、ケイト・ハリントン、ノーマン・メイラー、ジェイ・マキナニー、アンドレ・レオン・タリー

© 2019, Hatch House Media Ltd.

2019年/アメリカ・イギリス/98分/カラー・モノクロ/ビスタ/5.1ch
配給:ミモザフィルムズ

『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』
オフィシャルサイト
http://capotetapes-movie.com