OUTSIDE IN TOKYO
YANG IK-JUN INTERVIEW

ヤン・イクチュン『息もできない』インタヴュー

3. ホウ・シャオシェンは「流れている川に文字を刻まないで、岩に刻め」と言った

1  |  2  |  3  |  4



──あなたはなぜ映画を撮りたいと思ったのでしょう。
Y:私が監督になったのも、元々、語りたいことがあったからですし、さっきの話題とも繋がってしまうかもしれませんが、私はまず監督よりも俳優から入り、そもそもなぜ俳優になりたかったかと言うと、別にスターになろうとか、有名になろうとか、そういうことは一切思っていなかったんですね。自分の中にあったものをとにかく吐き出したくて、それで吐き出すひとつの道が演技だと思っていたんです。ところが、自分が出演する作品で与えられるキャラクターって、必ずしも吐き出したいものを吐き出せないこともあるんです(笑)。例えば、コメディをやっている場合、えっ、自分はコメディで吐き出したいわけじゃないのにって思うことが結構あったりして。人って、何かした後に達成感って言いますか、ああ、やったぞと、用を足した後のような、さっぱりした気持ちがほしいじゃないですか。でも自分が望んでいるキャラクターじゃない場合、それが得られなかったんです。だったらということでちょっと視点を変えて、監督になったらどうかなと。自分が語りたいことを作るのが監督ですよね。だから監督ならいいんじゃないかと思うようになって。ホウ・シャオシェンの言葉があって、「流れている川に文字を刻まないで、岩に刻め」、つまり、すぐに行動に移せ、川に流してしまったら残らないから、行動に移せってことをおっしゃっていたんです。その一言で影響を受けて、悩まずに自分を一歩踏み出してみようと思い、映画を撮ろうということになったんです。

最初の短編を撮った時から、自分の視点が入っていますし、自分の物語をすべてやってきたんです。最初は『Always Behind You』という片思いの話だったんですけど、好きな人がいるのに告白できない、つまり、それも吐き出せない状態ですよね。それと同じで、今回の『息もできない』というのも、父親に対して、言いたいことがあるんだけど言えない。それなら、それを映画の中で吐き出してみようとなりました。つまり、この映画は自分にとって日記のようなものなんです。日記は一人で書くものですけど、どこかで人に見せたいという気持ちも、どこかしらにある気がするんです。そこにはちょっと皮肉や矛盾があるんですけど、日記として書いているものでも、ちょっと見せたいという気持ちがあって、それが今回の映画に繋がっていったかなという思いはあります。私は特に学があるわけでもなければ、何かを勉強したわけでもなく、10 年間、映画で演技をしてきた人間なので、自然と自分の語りたいものとなると、映画の中で表現することになるわけですね。もし自分が音楽とか小説をやっている人間だとしたら、『息もできない』というタイトルで、音楽を作ったり小説を書いたりしたと思うのですが、私の場合はたまたまそれが映画だったんです。だから人が山でわーって叫んだり、映画の中のサンフンみたいに誰彼かまわず殴ったりってことをしたくても、まあ、本当はしちゃいけないですけど(笑)。

そんなもやもやした気持ちがあって、本当におかしくなりそうなんだけど、それを行動に移せないわけですから、それなら映画の中で全部やってしまおうと思いましたね。ただ、ひとつだけ守りたかったのは、人に迷惑はかけないということでしたね。それは俳優にも伝えました。自分の考えや、自由な行動はいいんだけども、人に迷惑をかけてはいけないってことは、俳優にも言ったんです。だから日常の中で殴りたくても殴れないような、サンフンのような気持ちを抱えているものを全て映画の中でぶつけてみました。私自身、本来は小心者なんです(笑)。だからこんな風に人を殴ったりもできません。でも映画は、実際に殴っているようだけども、痛みはないわけですね。だから迷惑はかけていないので、外で出来ないことを映画の中でやってみたんです。俳優にはそういう人が多いんですよ。やりたいけどできない。何かを外に出したいけど出せない。でもカメラの前に立つと出せるという性格の俳優さんが多い気がします。それを考えたら、人って心の中にすごく皮肉やアイロニーを抱える存在なのかなって思いますね。

──この映画を、誰に誉められたら一番うれしいですか?
Y:実はすでに素晴らしい方にお誉めの言葉をいただいているんです。ホウ・シャオシェン監督が、よかったよと言ってくれました。でもそれだけじゃなく、ちょっとエンディングが長過ぎたんじゃないのとも言ってくれました。それはあくまでも本人の考えで、一般論ではないと言った上ですが、言ってから、「あっ、ごめん。そういうことは言うべきじゃなかったんだけど、言っちゃった」みたいなことを言ってくれて(笑)。あくまでそれは友人として、同僚として言ってくれたと思います。あと韓国の監督では、イ・チャンドンも応援してくれましたし、パク・チャヌク監督もすごくいいと言ってくれました。あと、ブルーノ・デュモンが、フランスで私の作品を選んでくれて、とても好きな作品ですと言ってくれました。好きな俳優の、リュドヴィーヌ・サニエもよかったと言ってくれました。

釜山映画祭にホウ・シャオシェン監督が来て下さって、(映画祭の)プログラマーのキム・ジソクさんも交えて一緒に食事をした時、私の隣でホウ・シャオシェン監督がごはんを食べていて。大好きな監督ですからうれしくて、一緒に食べていたら、ホウ・シャオシェン監督が、私の顔を見て、いきなり「シーバル!」と言ったんです(笑)。そう言われたもので、私も「シーバル・ロマー」と返しました(笑)。監督はさらに、釜山映画祭の委員長であるキム・ドンホさんに、「シーバル・ロマー」と言ってもいいですかと聞いて、プログラマーのキム・ジソクさんは、「いや、それだけはやめてください」と言っていました。私としては、その「シーバル・ロマー」という言葉が、この映画の中で自然に台詞として聞こえてほしいと思ったんです。この言葉は、悪口というか、罵倒する言葉ではあるんですが、韓国の男性がよく使うもので、いろんな感情がこめられているんですね。だからこの映画を見ていく中で、気がついてみたら台詞に聞こえていたと思ってほしかった。サンフンという人間は、正当な言語習得をしていないんですよ。学もないですし、あんな環境で育ったので、ちゃんとした言葉使いができない人間で、友達のマンシクという人物に対して、「シーバル」と言ったら、それは親しみなんです。でも父親に「シーバル」と言ったら、それは怒りを表しているので、彼はその一言で、いろんな感情を使いわけているんですね。悲しいことではありますけど、彼の言語というのは、そんなふうに罵倒する言葉であり、暴力であり、ということになってしまう。いずれにせよ、今回、この映画を見終わった後、皆さん、よく「シーバル」と言っていますね。最近は「シーバル」と言うと、「映画を見たよ」というお互いの合図のようなものにもなっていますね。

──では、次に会う時には覚えておきます。その時は怒らないでくださいね。
Y:大丈夫!!

1  |  2  |  3  |  4