OUTSIDE IN TOKYO
Luca Guadagnino INTERVIEW

ヴィタリー・マンスキー『太陽の下で -真実の北朝鮮-』インタヴュー

2. 体を組み立てている“骨”を、人はどうすることもできません

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OIT:ドキュメンタリー映画というのも変わってきていますね。例えば、ジョシュア・オッペンハイマーの『アクト・オブ・キリング』(12)のように、フィクション的な作り方をしているドキュメンタリー映画が増えています。そうした流れの中に、ひょっとしたらこの映画もあるのかもしれないと思ったのですが。
ヴィタリー・マンスキー:ひとつ、大きな違いがあります。それは、オッペンハイマーの映画に出た人達は、自分たちが演技しているということを知っているのです、だから、撮影が終われば演技をやめればいいわけです。ところが私が撮った映画に出演した人々は、やめられない、演技をしていることを知らないのですから。もうずっとあの欺瞞、あの体制の中にいて、やめることができない。ここにもの凄く大きな悲劇がある。ただひとつ、修正しながら言いますが、北朝鮮はソビエト連邦にある程度似ているのです。ソビエトでも、やはりデモンストレーションがあり、スローガンを掲げて、指導者のポートレイトを掲げて、ソビエト共産党万歳!と叫んでいました。しかし、このデモが終わると、そのポートレイトを捨てて、プラカードも捨てて、そして台所、台所がみんなの一種の食堂のようなものなのですが、小さな台所に集まって、みんなの好きな“小咄(アネクドート)”で指導者たちを揶揄したわけです。ですから、2つの生活があった。オフィシャルな生活とアンオフィシャルな生活。ところが、北朝鮮の場合は、あの私たちがいつも見る整列したデモンストレーションも現実も同じなのです。2つの生活がなくて、1つの生活しかない。そこが、とても似たようにみえるソ連邦との違いです。

OIT:本当はもうひとつの生活があるのではないかと思っていたけれども、実際に行ってみたら、それがなかったということですね。
ヴィタリー・マンスキー:私もあなたと同じようにそれを期待していたのです。もうひとつの生活があるんじゃないかと期待していたのですが、今回撮影してみて、2つめの生活がないということを発見したことが、私にとって非常に恐怖なわけです。最も恐ろしい流血の事態というのが1937年に起きています。テロがあり、100万人の人々が強制収容所に入れられた。革命が1917年にありました。1917年の革命で殺された人々は20代、そして1937年に殺された人々は40代、そして銃殺された人々は銃の前に立って、死の前に、一体何が起きたのか、ということを理解したわけです。そして2016年の現在、北朝鮮の40歳の人々は、もう生まれた時からすでにこの体制下で生きている。だから彼等は、あなたたちのこと、私たちのこと、日本のこと、アメリカのこと、韓国のことも何も知らない。彼等が知っているのは、彼等に話されて、聞かされたことだけなわけです。日本でもアメリカでも、生きるのに大変ですね、何とか生き抜かなくてはならない、家族を養わなくてはならない、決して天国などではない。しかし北の人々は、そうしたことすら知らないという現実なのです。

OIT:最後に少女が動揺して涙を流すシーンがあります。少なくとも、あのような感情がある、ということは映画から伝わってきました。
ヴィタリー・マンスキー:どんな子供でも生まれた瞬間というのは自由なのです。たとえ牢獄で生まれようとも。しかし、ここが牢獄だ、ということを意識し始めた時から、牢獄での生活が始まるのです。ですから、あの瞬間は、最後の子供時代の成せる技であって、でももうこの巨大なシステム化された国で少年団に入団して、この先ずっと、組み込まれていく、そういう別れの瞬間だったのでしょう。

OIT:監督は『祖国か死か』(11)をキューバで撮った時に、キューバは変わるだろうというコメントを残しています。しかし、今回の北朝鮮に関してはまったくそのような気配もなかったということですね。
ヴィタリー・マンスキー:そうですね、まったく感じませんでした。少なくとも、私が生きている間は、変わらないのではないかと思いました。でももっと恐ろしいのはそのことではないんです。もし変わったとしても、変わった国に生き続ける人々が、自由に生きられないのではないかということなのです。私と私の国は、ソビエト崩壊という時代を経験してきました。もうソビエト連邦というのは、私たちの体を構成している“骨”みたいなものなのです。だからもう非常に大きな影響を受けている。その体を組み立てている“骨”を、人はどうすることもできません。


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