OUTSIDE IN TOKYO
THE BAADER MEINHOF COMPLEX INTERVIEW

『バーダー・マインホフ 理想の果てに』オフィシャル・インタヴュー

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ベルント・アイヒンガー(脚本/製作)

脚本執筆と本作の壮大なコンセプトについて
「こま切り手法」という劇作法を使った。といっても、私の造語だが。物事を多くの断片で語る手法だ。普通は、“誰かがドアを入ってきて「こんにちは」と言い、「何か飲む?何がいいかな?ソーダ水は?」そしてその男が腰掛ける”となる。でもそれではこのテーマに近寄ることはできない。全くダメだ。それに、人間がなぜあることをするのか、またはしないのかを説明することも意味がない。事実だからね。「こま切り手法」は、「細かく切る」ようにたくさんの物語を重ね合わせる手法だ。サウンドトラックでもわかると思うが、音楽にいろいろなものが混ざり合う。たとえば異なるアナウンサーの声。ラジオのアナウンサー、TVのアナウンサー、レポーターの声が重なり合う手法なんだ。

ウリ・エデル監督との仕事について
私が脚本を書き始める前に、ウリはとてつもない調査を敢行した。それはもちろん、非常に役立った。実際の出来事自体が膨大な数になる。セリフのある役が140人もいる!140だよ!ものすごいデータ量、出来事、人間を処理しなくてはならない。そういう中で、多くの調査をし、あるいは調査に深く関わり何でもよく知っている人間がいるのは、本当に助かるんだ。私はウリが撮ったフィルムは何でも知っている。8ミリのプライベートフィルムまで、1インチ残さず知っているよ。彼と一緒に『クリスチーネ・F』と『ブルックリン最終出口』という2本の映画を作った。2本とも非常に難しい映画だが、上手く作れたと思う。我々は映画学校からの知り合いで、彼が在学中に撮った映画も全部知っている。いつも一緒だった。だから知り尽くしている。その後、彼はアメリカですごいキャリアを積んだ。『ブルックリン最終出口』の後、TV界で大成功したんだ。TVの分野で称賛される賞をたくさん受賞している。最高の映像作家だ。今回も彼のやることを見ていて確信したが、ウリは、我々の世代における最高の映画監督の1人だと思う。

本作の撮影について
映画の撮影は、基本的にいつもストレスが溜まると言っていい。だが比較的、今回はストレスが少なかった。(笑い)うまくいっている感じがしたからだと思う。今回はかなり撮影にも参加した。キャスティングもうまくいったし、ウリの下準備も完ぺきだった。だから、映画撮影における私の心理的緊張は、多少ほぐれたと言っていい。でも撮る前の緊張は、耐え難かったよ。俳優たちが役に慣れるまでは気が気ではない。相性はどうだろう。みんながうまくかみ合うだろうか。そこにカメラマンも加わる。俳優とカメラマンの相性はどうだろう。そういうことは前もってわからない。祈るしかないんだ。

主人公3人のキャスティングについて
実在の人物と瓜二つである必要はないが、似ている必要がある。ある程度似た俳優が必要だ。それが難しかった。候補者はそれほど多くない。背格好もだいたい決まっている。誰がいいだろう。だが、俳優は10年間を演じなくてはならない。若い俳優を配役して年を取らせるか、あるいは年上の俳優にして、昔は大人っぽく見える人が多かったから、それに賭けるか。そういうふうに考えていった。モーリッツ・ブライプトロイとマルティナ・ゲデックは比較的早く決まった。少し時間がかかったのはグドルン・エンスリンだが、ありがたいことにヨハンナ・ヴォカレクを見つけた。だが問題は集団のキャスティングだった。最終決定までに約3週間かかったんだ。ほとんど毎日、テスト、テストだったよ。全員が満足し、「これでいい、完ぺきだ」と思えるまで続けるが、そこまでいくのが大変だ。今は誰もが「ピッタリの配役だ」と言ってくれる。我々にとって最高の瞬間だよ。


シュテファン・アウスト(原作)

原作の執筆について
ドイツ赤軍とは人生を通していつもなんらかの関わりがあった。私がシュターデという北ドイツの小さな町で育ち、クラウス・ロールの弟と同じ学校に通い、一緒に学生新聞を作ったことに端を発している。クラウス・ロールは「コンクリート」誌の発行人でウルリケ・マインホフの夫だ。だから私は学校に行っていた頃からウルリケ・マインホフのことを知っていた。私は卒業後まっすぐ「コンクリート」誌に入った。ウルリケ・マインホフはコラムニストをしていた。編集長ではなく、コラムニストだった。彼女を頻繁に見かけたよ。そして私は1967〜68年、学生運動の時代を通して「コンクリート」誌で多くの人たちと知り合った。学生運動にかかわり、後にドイツ赤軍に入った人間と個人的に知り合うことができたんだ。おかげで私の情報量は誰より抜きん出ていた。その後私はNDR放送で編集者として働き、ドイツ赤軍、初期のドイツ赤軍に関する多くの寄稿文、さらに訴訟やハンガーストライキなど、様々なテーマに関わった。だがもっと正確に知りたくなったんだ。それでNDR放送を辞め、基本的に3年間をこの本を書くために費やした。膨大な資料をまとめたり、インタビューをしたり、この本の作業だけに集中したんだ。

映画の実現について
人生は常に偶然の出会いから成り立っている。それはドイツ赤軍に参加した人たちも同じだ。ほんのちょっとした偶然と関係している。映画のことも偶然が関わっていた。ある日、「シュピーゲル」誌の私のオフィスに、当時NDR放送の文化部長だったトーマス・シュライバーがやってきた。そして「“ドイツの秋”のシュレイアー誘拐事件から30年経ち、ドキュメンタリーシリーズをARD放送が関わって作りたい。その事件を熟知し、本を書き、すでにドキュメンタリーも作っているあなたに相談したい」と言われた。次に私はベルリンで、あるパーティに出席した。トーク番組司会者のザビーネ・クリスティアンゼンのパーティだった。そこでベルント・アイヒンガーに会った。彼とは比較的長い知り合いで、いろいろ話せる間柄だった。そこで彼に自分の計画を話した。すぐに彼が「いっしょにやろう」と言ったんだ。でも私には問題があった。発端はNDR放送のトーマス・シュライバーの依頼だったからだ。そこで「いいけど、トーマス・シュライバーとも話さなきゃ」と答えた。それでミュンヘンでトーマス・シュライバーと会い、詳細に話し合った。比較的短時間で出た結果が、ちゃんとした映画を作ろうということだった。もっといいのはちゃんとしたドキュメンタリーを作ることで、さらにいいのは両方作ることだった。トーマス・シュライバーは本当に分別があり、心が広い人で、「事の発端は自分だから、両方やろう」と言ってくれたんだ。

小説の映画化について
フィクションを作り出したのではなく、実際の物語を題材にし、それを映画として凝縮させた。だからこの映画は小説の基本的アイデアから離れていない。それがわかってとても嬉しかった。つまり本当の出来事をコラージュのように描写している。時間軸に沿ってね。台本だけでなく完成した映画を観て受けた印象は、本の基本的な視点をできる限り正確に描いているということだった。観客に対してできる限り忠実に現実を見せている。しかも見事にね。この映画の中には、はっきりと私の小説が映し出されている。

観客の本作への期待について
こういった史実のテーマを描く映画や小説は、過去を非常にはっきりとした形で人々の前に提示することができる。だがそれ以上のものではない。しかし、何が過去に起こったのかを示し、出来事を1本につなげた形で描写することができる。多くのリサーチをし、あの歴史的出来事を1本の線上に見える形にまとめあげた。別の媒体なら、また別の方法もあるだろう。だが、目に見える形で過去を現在へ持ってくるには、映画が何よりも優れている。ドイツの歴史、ドイツ赤軍の歴史、1960年代の出来事、テロリズムの歴史を、この映画で学ぶことができるんだ。

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