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PIERRES SCHOLLER INTERVIEW

ピエール・ショレール:オン『ベルサイユの子』

2. ギョームはベルサイユの森のそばに産まれ育っており、幼い頃の記憶が呼び覚まされたようです

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カメラが示す視点、観客が見るべき視点、(エンゾ役の)マックスの視点、(ホームレス役の)ギョームの視点がありますが、それを監督としてどのようなバランスで構成したのでしょう。
それはいい質問ですね。この映画の視点は、この映画に特有のものなので。この映画には3人の登場人物がいます。物語の中でいいバランスを見つけるのはむずかしいことでした。物語と視点の追い方としては、まず母親から始め、母親がいなくなると、カメラはダミアンの視点と重なり、後に成長していく子供と重なる。観客にとって少しむずかしいのが、映画が常に変化していくことです。常に進化しているのです。ですから補足ではないまでも、この映画をカメラ・アングルから全て完璧にするためには、見ている側にも、もう少し映画とともに成長してもらうというか、理解するための努力が必要とされるのです。
ストーリーにはとてもシンプルな要素があります。単純に、食べる、眠る、恐怖を覚える、歩くなど、とても単純な行為です。そんな単純なシーンはたくさんありますが、そんなシーンに本質的で深い部分があるのです。人間の深いところでの変化はどうしても時間がかかります。そんな全体を通して観客に理解してもらえたらと思っています。
こうしたドラマチックな映像を2時間で表すには、本当ならばもっと多くの要素が必要です。そのため、全てをまとめるために、様々なものを要約していかなければならなかったわけです。

(母親がどうしてそんな状況に陥ったかなどはあまり描かず)こうした視点を効果的に用いるために様々な方法を試したりしたのですか?
もちろん!実際、脚本も最初は違うものでした。撮影と編集を経て、新しい出発点に立ち返りましたが、最初は15分の間に、母親の姿が見え/夜にやってきて/他に女性が2人いる中/工場にいるのが見える/そして大きな黒人女性がコートを片づけると仰向けに寝ている子供が現れる(子供は更衣室にずっといたのです)/子供は眠り/とても静かで落ち着いていて/母親は仕事に行く/そしてホテルに戻り/母親が部屋をきれいにする間、子供はひとりで過ごす/とても場末な感じのホテルで生活していて/そこへ警察が来て/児童福祉関係の人が来て/ホテルは閉鎖され/居場所が無くなり/最後は子供を連れて逃げ/街で寝る生活になる/というシーンだったのです。

作り手である監督から、テレビと映画で求めるバランスはどんなものですか?フィクションとドキュメンタリーのバランスも含めてどうですか。
私の仕事の仕方は、基本的に、フィクションにしてもドキュメンタリーにしても、まず、いわゆる現実世界を軸とします。なぜかというと、現実の中には、いくら現実であっても、現実を追求し、現実に集中するなら、そこには必ず親密なもの、ロマンの要素が含まれてくるわけです。たとえば、この映画に限って言えば、子供の現実があります。子供の現実の中には、いくらフィクションでも、そこに童話の世界が存在します。だからそういう意味でも、映画の中でも童話を読むシーンが出てくるわけです。同じく現実という中では、貧困というテーマひとつ取っても、それはいろんな世代にとって、いろんな形で機能しているわけです。だからそういう意味で、現実を通した貧困の捉え方が大事です。たとえば小屋のシーンがあって、そこでは撮影というか、映像を見てもらえば分かりますが、まるで絵画のような、カラヴァッジョ的な絵画の要素があります。現実なのに絵画を想わせるという、私はそれを現実とドキュメンタリーの繋がりと見ています。
フランス映画は比較的、ナチュラリズムの要素で捉えられがちですが、意図的に、そうしたものを打破したかったのもあります。とても現実的なテーマですが、それをドキュメンタリー・タッチで撮りながら、その中でもとても詩的なシーンがあったり、また非常に想像力が豊かなシーンもあったり、とてもスペクタクルな要素のあるシーンがあったりする。またニーナとダミアンが、男と女として親密に過ごすシーンなど、いろんな要素があると思うんです。

ギョームの演じるダミアンは、劇中でも父親との確執がありますが、現実でも噂されていたギョームとその父親(有名俳優のジェラール・ドゥパルデュー)との確執は噂されてきました。ギョームが亡くなってしまった今、本人の口以外から聞くのはよくないかもしれないのですが、あなたから見てどうでしたか?またそんな確執が物語に入っているのは自身の経験もあってのことでしょうか。
役者にはふたつの演技法があります。まず、自分のために演じること。もうひとつは、キャラクターのために演じること。このふたつの姿勢は異なるものです。そしてギョームが偉大な役者であるのは、彼がキャラクターのために演技できるからです。彼はキャラクターに自分を全て注ぎ込むことができます。その過程を見ているのは素晴らしい体験です。彼には限界がないのです。なので、監督としての私の仕事は、そんなキャラクターの要素を、せめてギョームという役者に近づけてあげることです。その仕事は、毎日の撮影していく中で、ギョームがキャラクターに近づけるよう、手助けをすることです。ギョーム自身、すでに彼の中にあった記憶と、映画の過去とが触れる部分をたくさん見つけていたようです。例えば撮影し、演技を通して子供と触れあいながら、自分や自分の子供の頃のことと繋がっていく。森の中のシーンは特に、彼が実際にパリの郊外であるベルサイユの森のそばに産まれ育っていたこともあり、幼い頃の記憶が呼び覚まされたようです。
ギョームとお父さんの話ですが、それに限って言えば、私はジェラール・ドゥパルデューを知らないし、どういう確執があったかも分からないし、ギョームがこの映画を通じて、どのようなメッセージを伝えたかったかというのも、やはり本人にしか分からないことだと思うんです。

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