OUTSIDE IN TOKYO
M. Night Shyamalan Interview

M・ナイト・シャマラン『エアベンダー』インタヴュー

2. 一人の人間が、その芸術性の中で、自分に対して真実を貫こうとする時、
 それがドカンと爆発し、ユニークで特別なものになる

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Q:アクション・シーンもたくさん出てきますが、俳優自身が多くを演じていると伺っています。アクション・シーンの撮影で印象に残った挿話がありますか?
MNS:みんなそうだけど、特に(アン役のノア・リンガーとズーコ王子役のデヴ・パテルの)2人は武術の訓練を受けているし、デヴなどは特に長いこと武術の修行をしてきている。なにしろ彼は黒帯だ。それにノアはテコンドーのチャンピオンだしね。それでもノアはまだ子供だから、たまに戦いで傷ついたりすると、大人には、例えば脚が痛くても、実はたいしたことなかったり、とりあえず、最後までやったりするけど、彼はまだ子供だから、痛みの方が先に来ちゃうんだよね。ある格闘シーンで、偽の刀が脚に当たってね。彼は必死で泣かないようにしていた。彼のお母さんもその場にいたんだけど、近づかないで、彼は強く乗り越えたいと思うからって言うんだ。僕が、スタントの人がやってくれるし、ちょっと休んで、リラックスしたらいいよって言っても、彼はいやだって言うんだ。とてもタフな子だったよ。

Q:本作に登場するベンダーは、何かのプロフェッショナルな人を指すと思うのですが、監督の場合は何ベンダーですか?
MNS:僕の場合はストーリー・ベンダーだね(笑)。もしかしたら前に作られたものを操作して、ホラーだったら、ただのホラーにならないように作るとか、それを自分なりのものにしていくことなんじゃないかな。観客がおもしろいと思ってくれるのも、僕がひとつのジャンルだけでやっていないからだと思う。いろんなジャンルに渡っているからね。それが同時に、誤解も生むんだけど。泣いたり叫んだりする映画に慣れている場合は。子供とかファミリーが、アクション映画なのに、大きく感情を揺さぶられることに慣れてなかったりしてね。アクションで泣けると思ってなかったり。泣けるアクション映画なんてどれだけある(笑)?でも、そこには複雑なバランスのとり方がある。だからジャンル・ベンダーとも言えるかもしれないね。

Q:特にこの映画の場合、CGI、3Dとあるけれど、あなたの映画に根本的に必要なものは何ですか?
MNS:まず、必要なのは、何らかの意味があること。映画を越える何かが。例えば、僕は撮らないだろうけど、好きな映画を選ぶとしよう。例えば、アクション映画の『ラッシュ・アワー』とかはすごく楽しめたし、あのジャンルとしてはいい映画だと思う。僕にはできないけどね(笑)。それに例えば、最初の『ダイ・ハード』も意味があった。妻と夫が、離婚していて、テロリストがビルを占拠する事件をきっかけに、どこが互いに良くてどこが悪かったのかを気づき始める。男は妻を助けるために、どんなテロリストをもなぎ倒すつもりだ。それは妻が考える以上に、自分はいい夫だと思わせる方法でもある。本当は彼女のことをどう思っていたかとか。それが物語をもう一つの次元に誘うんだ。悪役も哲学を持っていたしね。ブルー・カラーの、しつこさと妻への愛しかない男に対して、かなり傲慢で力のある悪人、それだけで、僕にも意味が生まれる。そうやってより重要なことを見つけていくことができるんだ。映画のオファーを受けたり、何かについて考えたりする時、僕のオリジナルのアイデアだろうと、本の脚色だろうと、それをより意味深くしてくれるものは何なのかを考える。
それと今度は、完成した映画には、映画全体に自分自身を呼応させるものが入っていなければならないと思う。それが例え、滑稽でも、ぎこちなくても、僕自身のフレイバーが入っていればいい。自分なりの感覚がね。例えば『サイン』のある部分には、そんな僕の感覚が入っていなかったりするし、それはとても気に障る。でも『アンブレイカブル』だと、どのフレームにも、僕のそうした部分が入り込んでいて、それがより意味深いものに感じられる。つまり、僕自身にとってより意味深い作品となる。それは、僕が信じているドグマや美的ルールがあるということ。それがないといけない。まあ、たまには失す必要がある時もあるけど。まあ、そうなると、あまり僕自身には残らない。でも時を越えても、観客も、僕自身がよりはっきり出ている作品に反応してくれている気がするんだ。
なぜかって?それはね、例えば、黒澤よりも商業的に成功している映画作家はたくさんいると思う。でも彼の映画ばかりが僕らの記憶に残る。サタジット・レイ以外にも、何千というインド人監督がいるはずだ。でもみんなサタジット・レイばかりを思い出す。キューブリックもトリュフォーもみんな同じだ。それは同じことだと思う。彼らの映画にはそういう要素があったからだ。一人の人間が、その芸術性の中で、自分に対して真実を貫こうとする時、それがドカンと爆発し、ユニークで特別なものになる。それは美しい。自分自身になれる許可が与えられる。それは時代を超えて理解され、芸術作品は爆発する。もし自分の一部としてではなく、ごく一般的なことをやれば、その時は咀嚼しやすいものになるかもしれないし、その瞬間においては成功するかもしれない。でも、それだと味も何も残らない。未来の世代にも自分自身にも残らかない。まるでファストフードのように。

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