OUTSIDE IN TOKYO
Michelangelo Frammartino INTERVIEW

ミケランジェロ・フランマルティーノ『四つのいのち』インタヴュー

2. 生物のピラミッドの頂点にいる人間は孤独な存在になっている。
 このヒエラルキーを崩して、元のバランスに戻すために映画を使いたかった

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OIT:別のものに繋がる何かという意味でも、台詞をなくしていったわけですか。
MF:もちろん、それはあると思います。この映画の中で音は非常に重要な意味合いを持っていますが、映画の中に音の奥深さというか、特別な奥行きが出ていると思うんですね、というか、出るようにしたわけです。それで自分たちが特にやろうとしたのは、色々な音が映像の後ろ側から出てくるということです。それはイメージの向こう側に何かがあることを示唆するためにあり、それを探さなければいけないことを感じさせるために、横ではなく、必ずスクリーンの裏側から音が出るようにすることで、向こう側の存在を示そうとしたわけですね。また、台詞を排したのは、人間中心の世界感を抜け出したかったからです。人間中心のものの見方をするという、そういった偏見から放たれたかったから。それである種、人間が一番上であるというヒエラルキーから抜け出すためなんですね。台詞を使うと、やはり人間中心の考え方になってしまう、人間を中心にして物語が回ってしまうから、そういう意味でも台詞を使わないようにしたんです。

OIT:それは台詞があると理解もしやすいし、観客、つまり観る側がサボることになるというのもありますか?
MF:そうですね。その通りです。台詞があることで唯一の解釈に導いてしまうわけです。別の解釈の仕様がなくなってしまうので、そういう意味でも使いたくなかったというのはあります。自分にとって特に重要だったのは、観客として見た時、映画は目に見えるものを見せる道具でもあるけど、それと同時に、目に見えないものも示唆することができる、非常に特殊な道具だと思うんですね。それって形を持たないもの、目に見えないものを感じさせるわけです。それは映画でとても有効なことで、人間と物との関係性を表すことができると思うんです。個人的な問題でもあるのですが、今の世界が抱えている問題でもあると思います。どういうことかと言うと、人間と、他の物との関わり合い、関連性から分かれてしまう。というか、人間とそれ以外のものが離れてしまうという問題があります。その繋がりを再確認するために、人間中心のヒエラルキーを崩して、元のバランスに戻すために、映画は非常に役に立ちます。人間と物との関係性を表すという意味で。人間がピラミッドの頂点にあるわけですが、頂点にあるということは、他のものと離れてしまっていて、孤独な存在になってしまっているんですね。それで本来のバランスを取り戻すために映画を使いたかったわけです。そのために人間の声、人間のしゃべり声を、動物の鳴き声や風の音とか、他のあらゆる音と同じレベルで扱う必要があったんですね。ただ言葉ということではなく、音として捉える必要性があったのです。


OIT:前半の途中から、ヤギの声から感情を読みとろうとしている自分に気づきました(笑)。演出というのはどれくらいしているのですか。監督としての演出は考えていましたか。
MF:演出している部分はかなり多いです。とても演出したかった部分と、自分で自分の足をひっかけているようなところもあって、要するに、演出上、邪魔になるようなこともたくさん入れています。だから現実と演出のせめぎ合いのようなものがあって、ずっと自分と自分自身との闘い、制御しきれないものを入れようとするものとのせめぎ合いがありました。

OIT:ひとつの流れで一貫して撮っているように見えて、時間が繰り返し、戻っていく中、自分自身も行きつ戻りつ、同じように求める画を撮っていったのですか。要するに、一回で撮り切れなかったものもあるのですか。
MF:非常に多くのカットを費やしたものもあれば、行列のシーン、つまり祭礼のシーンは非常に長いワンカットで、それは2日間かけて撮り、22カットで終わりました。動物たちの色々なカットもあります。そして10カットくらいで撮ったものもあります。非常におかしかったのは、ヤギが階段を上っていくシーンですが、あれは2回で撮ろうと思っていたんですね。1回はヤギが上っていくシーンと、それから、葬儀の時にやはり人間たちがおじいさんの家に行くのに、同じ階段を上っていくシーンと、2回で撮ろうとしたのですが、まあ、(結果的に)人間たちが上っていくシーンはカットしましたけど、おかしいのは、ヤギたちは一回で撮れたんですけど、人間たちは17カット、つまり17テイクも撮り直すことになったんです(笑)。

OIT:例えば、(群れの他のヤギが移動しているのに)子やぎが溝に取り残されるシーンなどは偶然ですか。
MF:いえいえ。かわいそうですが、結びつけられていたんです(笑)。

OIT:意図的な自分の物語の進行があったんですね。
MF:基本的には、あの土地を訪れたことから生まれていて、頭の中で考えて出てきたことではないんですね。あの場所に行き、自分の撮りたい映画としてはドキュメンタリーでもフィクションでもないものを撮ること。色々な、そういうパラドキシカルな境界線にある、そういう映画を思い描いていったんです。なので、そういうはっきりしたものではなく、何らかの境界線にあるものとして、そこへ行き、人間と人間でないものの存在を見たりしているうちに段々と分かってきて、イメージが湧き、こんな風にしようとなったのです。それも一回で決めたわけではなく、頭で考え、それからまた見直し、考え、それを何回も繰り返しながら段々と生まれてきたわけです。

撮影に行った時、自分が色々と調べて、どういう画を撮ろうかはっきりしたアイデアを持っていたわけです。絵コンテも描いていましたし。ただ、自分が動物とか、犬やヤギとか、木の祭りとか、あの土地のやり方で行われるものを撮影に行ったわけなので、自分がコントロールできないものを撮りに行っていることもよく分かっていて、その中で起こっていることを受け入れなければいけないということも、もちろん分かっていたわけです。自分としてはコントロールできないものを受け入れることもしたかったわけです。だから準備していったけど、自分に対して抵抗する現実というのも同時に求めていました。自分の手に負えない現実を同時に求めていたわけです。


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