OUTSIDE IN TOKYO
HONG KHAOU INTERVIEW

ホン・カウ『追憶と、踊りながら』インタヴュー

3. 共通の言語の役割の表と裏というものも、自分の扱いたいテーマのひとつでした

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OIT:通訳を介してアランとジュン(母親)がしゃべる、という設定にだんだん追い詰められていくところが面白かったのですが、どのように着想されたのでしょう?
ホン・カウ:冒頭で指摘して頂きましたけれども、“言語”も、扱いたかったテーマの一つなんです。共通の言語があるということは、そこには実は裏表があって、言語によって、コミュニケーションがとれて理解することができると一般的には思いますが、アランとジュンの場合は、最初は言葉が通じないのに結構仲良く出来ていたものが、通じるようになったことで不仲になる、お互い共通点がないということが分かってしまう。反対にリチャードとの場合はヒーリングに繋がっていく、だんだん近づいてくるという役目を果たしたりする。そして不思議なことに、言語が全く通じないのにも関わらず、そこには何か理解できるものがあるといったことも含めて、共通の言語の役割というものの表と裏というものも、自分の扱いたいテーマのひとつでした。

OIT:伝わると思っていた“言語”が意外と伝わらないという、そのパラドックスと同時に、逆に目に見えないけれども、伝わるのが“匂い”だったり、“想い”だったりして、この映画では目に見えないものを描こうとしているのかなと思ったんですね。特にリチャードとカイの二人のシーンは、非常に美しく撮られていますが、そこでも“匂い”というものが一つのテーマになっています。
ホン・カウ:私は、今仰って頂いたようなものを映画的になんとか観客に感じてもらいたいと思ってそうした表現を使ったわけですけれども、なかなかそれって手で触れるものじゃないだけに難しいと思っていましたので、そういう風に言って頂いて有り難いと思います。

OIT:そういうことも含めた繊細さがこの映画にはあるのですね。この作品は監督の長編映画第一作目ですが、多くの監督が第一作目には自分のパーソナルなものを詰め込んでいます。この作品もそういう面があると思っていいですか?
ホン・カウ:そうですね、もちろん自分自身のすごくパーソナルな想いがこの作品の中には投影されています。例えば、仰って頂いたように、”不在”とそれがもたらす悲しみ、そして年をとっていく母親に対する罪悪感、自分としては母親の側にいなくてはいけないと思っているけれども、そのように出来ていないことに対してすごく罪悪感を感じているということ、伝統的なことを理解するが故に、自分自身がすごく西欧的な考えの中で生活していることに対する葛藤、私自身が持っている、そのような想いがキャラクターと物語の中に確かに投影されています。

OIT:先ほどのお話の中であまりバジェットがなかったっていう話が出てきたんですが、観ているとそんなにバジェットで苦労している感じがありませんね。画がきれいだし、キャスティングも充実していますので、そうしたところも第一作目としてとても素晴らしいなと思いながら拝見しました。次作の予定というか、もう考え始めていることがあれば教えていただけますか?
ホン・カウ:実は今、次回作の脚本を書いているところです。やはりアイデンティティの問題を扱っています。物語は現在のベトナムで展開し、その中に出てくる登場人物、主人公達は間接的に過去のベトナム戦争の影響を受けざるを得ない、そういう物語を描いています。


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