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F. GARCIA × S. MIYAKE DIRECTORS TALK

『聖者の午後』フランシスコ・ガルシア×『Playback』三宅唱:監督対談

2. 自分自身の現実の人生がつまらないんです(フランシスコ・ガルシア)

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三宅唱:実は見て頂いた『Playback』(12)の一つ前に、僕は『やくたたず(Good For Nothing)』(10)という映画を撮りました。高校卒業を間近に控えた男たちが主人公で、社会に出ようとするんだけども阻害されている。『聖者の午後』同様、かれらが乗る車は途中で止まってしまうし、周りにあるものはまるで役に立たない、仕事もうまくいかない、そんな映画です。『聖者の午後』と似た描写もあり、どの国であったとしても同じ世代は同じような状況の中にいるんだなと感じます。
フランシスコ・ガルシア:そうですね、今おっしゃったように、自分のことを語っている作品が一番普遍性を持って、全然違う国に住んでいる人とより良いコミュニケーションをすることが出来ると思います、それが凄く嬉しいです。是非その『やくたたず』を見たいんですけど、見られますか?

三宅唱:持ってきたので、DVDを差し上げます。
フランシスコ・ガルシア:ありがとう。人間関係を映画の中で描く時、『聖者の午後』の中では、労働、仕事もしくは仕事が無いことが人と人を結ぶ要素になっているわけですね。そういう意味でブレヒト的なのかもしれないですけど、考えてみると、仕事について問いかけをしていく映画の中でも、仕事以外のところでも問いかけをしていくことが重要なのではないかと思います。

三宅唱:ブラジルでは、『聖者の午後』の登場人物に似たような世代の観客はもう既に見ていますか?
フランシスコ・ガルシア:この作品はブラジルでは、既に10都市から12都市ぐらいで公開されています。但し商業的な意味で言えば、やはり非常に難しいことは作った時点で既に分かっているわけです。白黒だし、知らない役者ばかり出ているし、脚本自体がアンチストラクチャーというか、何も起こらないですよね、もう受けない要素はてんこ盛りであると(笑)。ブラジルで受けようと思ったらやり方はあるわけで、テレビのドラマで有名な役者さんを連れてきてコメディをやる、そうすればそれはもう本当に儲かるんですけど。でもそういうことをしないものですから。まあ金銭的には全く難しいですが、海外の映画祭で凄く評判が良かったのと、ブラジル国内外で、評論筋の人達に気に入ってくださったので、それが凄く良かったです。

三宅唱:僕の映画も白黒でドラマの少ない映画だから、商業的な部分はよくわかります。それはさておき、僕が知りたいのは劇中の彼らに似たような、実際にあんなふうにして日々生きている人々はこの映画を見てどのようなリアクションをするのか、映画を見終わった後に何か変化があるのか、どんな気持ちになるのか、そこに興味があります。
フランシスコ・ガルシア:実はこの映画に出てくる登場人物の元になっているのは、自分に近しい友達たちなんです。彼らは、まず自分達のことが描かれていると気付いたのと同時に、居心地が悪い思いをしたと言っていました。それがまさにこの映画の目的の一つで、彼らをコンフォートゾーンから引っ張り出したかった、なんとなく居心地が悪いような感じにしたかったんです。確かに彼らはそういう風に感じたと言っています。もちろんフィクションなので、現実に一日中マリファナを吸ってる人間がいるわけじゃないんですが、ああいう自然主義的ではない記述をすることで、今という歴史的瞬間を別の形で描いて、その中に出てくる人達にバツの悪さであるとか、居心地の悪さ、そういう気分を味わってほしかったのです。

三宅唱:なるほど、その居心地の悪さ、あるいは不自由さみたいなものがあるというのは僕も一人の観客として感じました。なにもしないでテレビを見たりネットサーフィンをして終わる一日を思い出したりもしました。また、最後のシーンにおいて、雨の中で彼ら三人が座って前の壁をただずっと見ている、あれはまるで映画の観客の姿のようだとも言えそうです。
フランシスコ・ガルシア:やっぱりあの家ですよね、あの家が彼らを閉じ込める、そういう環境というのがあるんですね。あの家の中でまさに三宅監督が言ったように一日中テレビを見ていたりする。要するに映画の中で登場人物がどんどん麻酔をかけられていって、最終的にはもう完璧に麻酔がかかってしまって動けなくなって、雨の中でぼけっと座っているわけですね。何でああいうことを考えたかというと、自分自身の現実の人生がつまらないんですよ。つまらないし、飽きるし、退屈で、つまり自分の人生がもっと浮き沈みが激しくて、それこそハリウッド的に色々な出来事があるような、そういう人生であれば良かったんですけど、実際はそんなことはなくて、人生っていうのはつまらないものだなというのがあるんです。彼らはどんどん動けなくなっていき、最後のシーンでは、ブレヒト的なものを遠ざけて、彼らは壁に向かっている、先がない。もしあのシーンで、雨の中であっても三人の前に海があったりとかしたら、これはもう開口部分が出来るっていうことになるわけですけれども、壁に向かっているのでそこには地平線も水平線も無ければ自由も無いまんまであると、でも例えばもうちょっと時間軸を伸ばしていって、あのおばあちゃんが亡くなって家を売りに出して、みんなでその金でマイアミに行ってマイアミのビーチで海に向かって座っててもいいわけです。でもそうじゃないんです、人生はそうじゃなくて、彼らはそこから逃げられないし、出られないし、ああいう形で終わるしかない。


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