OUTSIDE IN TOKYO
Fatih Akin INTERVIEW

ファティ・アキン『ソウル・キッチン』インタビュー

3. 愛、死、悪というのは、それぞれを足せば、人間の本質になる

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OIT:三部作の最後のテーマは悪になるわけだよね。
FA:うん、そうだね。

OIT:そこに時代ものを持ってきたというのは、その悪のテーマを語る上で、そのジャンルが有効だから、という理解でいいですか?
FA:まず、3本映画のコンセプト、つまり三部作のコンセプトは…、というか、三部作のアイデアが生まれた時、それは2001か2002年だったと思うけど、9.11の事件がみんなに大きなインパクトを与えた。僕の視点だけでなく、みんなにとっても。9.11が起きた時、僕は映画の撮影の初日だった。『愛より強く』の前の映画だった(『Solino』)。最初に頭に浮かんだのは、それをやったのがムスリムの人たちじゃなければいいのにということだった。僕はムスリムの家族の子供だからね。そして一度、ビン・ラディンとその一味だと分かり、拠点のハンブルクからムハンマド・アターらが送り込まれたと分かると、自分と無関係には思えなかった。分かるかな。『愛より強く』は、それに対する自分の反応だった。だから怒りに満ちた映画になった。そしてアンドレアスと一緒に『愛より強く』の脚本を書いている時に彼に言ったんだ。映画1本では十分に語れない気がする、と。僕らが語りたいことにはね。本当に言いたいことを伝えるには3本は必要だと。つまり愛、死、悪だ。そのアイデアは気に入った。そして僕らでバッジというか、洋服に付けられるステッカーみたいなものを作ったんだ。ハートの上に、死を象徴する十字架があり、悪を象徴するペンタグラムがあって、それでTシャツも作った。みんなは僕らがロックバンドでも作ったんじゃないかと思っていた(笑)。でもその時点ではまだこれから作る映画そのものへのヴィジョンはなかった。まだ作りたい映画のテーマに対するヴィジョンに過ぎなかった。愛、死、悪というのは、それぞれを足せば、人間の本質になるからだ。僕の解釈ではね。愛は、人間のポジティヴなエネルギーだ。男の子と女の子の関係だけでなく、男と男、女と女の関係でもいい。親と子供の関係でもいい。都市と人々でも、何でもいい。許しとか悔恨とかも。その反対にあるのは悪だ。そして死は、最終地点ではなく、その2つの力の門のようなものだ。変身のように。死の夢を見るということは、変化することを意味する。変化の象徴だ。死は常にどこか別の意識、物理的な状態へ到達するための方法となる。そういう考え方だ。それは学生に課題を与える教授のように、例えば、愛についての映画を1本撮りなさい、死についての映画を1本撮りなさいと。そして次のテーマが悪だ。僕はたくさん考えてみた。どうやったらそこに近づけるだろうかと。教授が課す演習のように。これについての映画にしようか、いや、あれについての映画にしようかというふうに。そして僕が行き着いたのは、それを過去に置くこと。でもそれは時間軸に過ぎない。最終的には重要なことではないと思うんだ。大事なのは、それが絵を描いているフレームであることだ。

OIT:それはどれだけの過去ですか?
FA:(笑)そのうち分かるよ。プロットまで全て話してしまうから。待っていてほしい。

OIT:この映画は、ストーリー展開もキャラクター設定も多岐に富んでいて、どこまでが監督のプロット通り、というか、最初からこういうキャラクターで行くとどこまで決めていたのか、それともセッションというか、キャストや場の雰囲気など色々なものが加味されてこの作品に仕上がったのか、どういう過程で出来上がったのでしょう?
FA:こういう形になることを最初の時点から望んではいたよ。この映画に対するヴィジョンはあった。結果的にどうなるはずだというテストケースのようなものは最初からあった。最良の結果としてどうなるかというヴィジョンもあった。でも同時に、このヴィジョンは、みんなも加わり、撮っている間にも生きていた。それは部屋を掃除していて、ものすごい散らかり様なんだけど、それを生み出したのも自分である。分かるかな。ホテルの部屋に入って、全て破壊したとして、それを全て破壊しているのは自分の力だ。そして今度は友達と一緒にそれを片付けることにする。みんなでその断片を片付けていくんだ。僕の役割は、その片付けのコーディネーションだった。でも、片付け自体はみんなでやった。それは演劇の舞台のようだと言えるかもしれない。僕はとても知的でやさしい俳優たちと仕事をしている。知的、且つ、やさしい俳優ということは、エゴの問題がないということだ。今日はどんな風に見えているだろう、自分の演じる役柄は十分に大きな役だろうか、目立つだろうか。そういうのがないんだ。僕はファスビンダーのような監督ではない。コントロール・フリークでもない。役者にアイデアがあれば、たいていはその方がよかったりする。脚本に書かれているものよりも、僕はそっちを採る。それが自分の仕事であるという意識でいる。僕はとても大きな空間を作り、みんなが自由にそこへアイデアを貢献できる。そして僕はそこから一番いいアイデアを取るまでだ。そしてそれらをどうにかして、一緒に合わせようとする。脚本は完成していなかった。理由は2つ。1つはバカげた理由で、二度とやらないだろう。それはカンヌ映画祭までに映画を完成させたかったから。カンヌから時間を遡るように決めていった。納品までにポストプロダクションがあり、その前に編集があり、これはここまでに、プレスはここまでに。そして結局、カンヌには間に合わなかった。3月の半ばで完成から遠いのは明白だった。それに撮影し直さなければならないシーンも出て来た。そして結局、夏まで再撮、再撮、再撮と続いて、ヴェネツィアでさえ間に合わないかもしれないという状況だった。もう1つ、脚本が完成していないのに撮影に踏み切った理由は、映画にあるメランコリックなムードを与えたかったから。これは別離の物語だから。女は男の下を去る。その撮影を秋に撮影したかった。この葉が茶色く。もう10月半ばで、どんどん落ち葉が落ちていくから早く撮影しなければならなかった。そこでやらなければいけなかったのは、整理していく作業で、脚本のどこで葉っぱが見られるべきだろうかということ。なので、順番に撮っていったわけではない。毎晩、脚本を書き直していた。既に撮影したものに合わせて。かと言って、ドグマ的な映画でもなく、即興を強調するわけでもない。全然違う。僕らのキャリアの中で初めて…、僕は朝起きて手を合わせて、今日は何を撮ろうか、というようなタイプの監督ではない。僕はきっちり準備している。自分の映画のプロデューサーでもある。お金の管理もするし、現場で時間を無駄にもしたくない。もう何ヶ月も準備してきたことを、現場に入って撮影するだけだ。それが今回だけは違った。準備することでそこへ繋がっていたし、そこへ引っ張っていった。そして夜は、何度も何度も書き直して、素材をシャッフルして、ラッシュを夜に見て、全てが大きく間違っていれば、それを翌日、撮り直すという状態だった。そしてまた書き直すという。でも、みんなが手を貸してくれた。みんなで一緒に作ったんだ。人に見せてテストしたりと、何度も何度も修正していった。今でも映画を変えていけるよ。編集室に入ったら何か変えてしまうだろう。でも諦めることを学ばなければならなかった。でももう終わったから、次の映画をやろう。

OIT:おそらく常に脚本も書き直していくくらいだから、次の作品のプランとかも、日々変わっていくと思うのですが、映画監督として作品を作るという過程において、どんなところから着想を得ることが多いですか?
FA:分からないよ。下りてくるだけさ。分からないけど、みんなと同じように映画を見るし、みんなと同じように本を読むし、みんなと同じように音楽を聴くけど、まあ、人や状況を観察したり、子供を公園に連れていったり、4歳の男の子だから公園に連れていき、そこにいる母親たちを観察しているかな。美しい母親たちなのに、どういうわけか、旦那や彼氏がいない人たちもいる。別れてしまったのか、一人で立っている母親がいる。でも美しいんだよ。するとラブストーリーのアイデアが浮かんだとする。奥さんのいる父親がいて、母親は夫がいて、毎日、2人は子供たちが遊んでいる公園で互いの姿を確認し、とてもドラマチックなラブストーリーの始まりかもしれない。すると彼女は夫と別れ、彼も奥さんと別れ、2人はつきあいながらも、みんなと同じようにはなれないかもしれない。僕は子供が他の子たちと遊んでいる中、そんなことを考えているんだ。どうしてそんなことを考えるのかは分からないけどね。

OIT:それも聞きたかったんだよね。あなたの映画の女性たちについて。彼女たちは強く、美しく、とにかく強いよね。
FA:ああ、そうだね(笑)。確かに美しくて強いよね。僕は学生の時、ファインアートの専攻だった。その中の映画とか、ヴィジュアル・コミュニケーションだね。そこで卒論をやらなければいけなくて、テーマを選ばなければいけなかった。僕はサウンドトラックについて書きたかった。ジョン・ウィリアムズの映画音楽について。それについて書きたかった。いや、ウィリアムズじゃなくて、ジョン・バリーだ!女性の教授のところへ行き、博士は70年代のフェミニスト映画の専門家だった。男は最低!男は邪悪!そういう映画の専門だった。それで僕は自分の論文テーマの相談にいった。ジョン・バリーについて書きたい。ジェームズ・ボンドの映画が好きだから、とか。特にジェームズ・ボンド映画の音楽について。それで彼女は、私はそんなことに全く興味がないと言った。僕はその時、既に映画作家だった。もう学生の間に映画を2本撮っていた。そして彼女は、あなたの映画の中の男と女について疑問があるのと言った。それで、あなたの映画の登場人物のセックス、その性的なキャラクターについて書きなさいよって。女たちはなぜそう振る舞うのか、男たちはなぜそう振る舞うのかを。そしてリサーチを全くする必要がないという意味でも大きな利点はあった。書いて書いて、自分の考えを書いていくだけでよかった。自分の思考を分析すればいいわけだ。それで、僕はそれをやったことをとても感謝している。自分のそれまでの映画の性的なキャラクターにあまり満足していなかったから。女たちもいるし、男たちもいる。でもあまり的確ではなかった。その卒論の後、僕は『愛より強く』を作った。その中で初めて女たちが、ある意味、的確に思えた。この映画でもそうだ。それまでは、自分が女性の中に入って感じようとしていた。それは僕の考えでは、間違っている。自分ならその状況でどうするかを書けばいいんだ。そして性別を変えればいいだけだ。それが僕の考えだ。パーソナルな思いだ。それが女性であっても。



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