OUTSIDE IN TOKYO
Edmund Yeo INTERVIEW

エドモンド・ヨウ『破裂するドリアンの河の記憶』インタヴュー

3. タイまで飛行機で飛び、録音技師のソラヨス・プラパパンをマレーシアに連れて来ました

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以降は、メールによるインタヴューです

OUTSIDE IN TOKYO(以降OIT):(プレス・カンファレンスで)監督はこの映画は“とても個人的な映画だ”と語りましたが、それはどのような意味で個人的なのでしょうか?
エドモンド・ヨウ:この映画は多くの点で、まさに個人的な映画であると言えます。それは、私の個人的な記憶(メイ・アンの祖父にまつわる記憶は私自身の祖母のもの、ホテルで語られるミンの母親にまつわる記憶は私自身の母親のもの、そしてあの提灯のシーン)と経験(教師との関係、初恋の感覚)、そして、私自身の信条(メイ・アンとリム先生との間で語られた多くの事柄は私自身の考えを顕しています)から生まれたものです。

ですから、この映画こそ、私が作りたい思っていた映画、100%そのものなのです。脚本に関しては、書き始めたものの完成には至らなかった、幾つかのアイディアを本作で使っています(唐行きさん、タンマサート大学虐殺事件、Liliosa Hilaoさんの悲劇に関するリサーチは、全て他の作品の脚本のために私が行ったものでした)。
OIT:俳優陣から、脚本はあったけれども、現場では“自分”を役作りに反映して自由に演じさせてくれたという話がありました。セリフもその場で変えられていったのでしょうか?現場での演出方法についてお話ください。
エドモンド・ヨウ:確かに脚本は作ったのですが、現場の出演者やスタッフには、脚本はひとつのガイドラインに過ぎないと言ったのです。なぜなら、本作の俳優陣なら、撮影中に、新たなインスピレーションを私に与えてくれるに違いないと感じたからです。そこで私は、撮影中に脚本を直し、台詞を追加したり、省いたりすることにしたのです。時には、俳優達に自らの台詞を考えてもらうことさえありました、その方がより自然だったのです。
OIT:現代の映画において、“音”は非常に重要なファクターです。水の音や鳥の音といった自然界の音、そして、メイ・アンの声が非常に美しい、こうした“音”に対してはどの程度意識的に取り組みましたか?
エドモンド・ヨウ:そうですね、“音”にはとても多くの注意を払いました(私は、音に対してとても敏感な人間なのです)、なぜなら、音響は、映画体験をより豊かなものにしてくれるからです。そのために私は、タイまで飛行機で飛び、録音技師のソラヨス・プラパパンを(タイのキャメラマン、コン・パフラックと共に)マレーシアに連れて来たのです。彼らの方が、通常、マレーシアで行われるよりも、音の扱いが遥かに繊細だからです。

そして、ポストプロダクション(カラー・グレーディング)の段階で、バンコクへ行き、彼の特別仕様の音響スタジオでプラパパンさんと共に数日間を過ごし、ミキシングと音響デザインを行いました。
OIT:この映画は、“マレーシア”という最も大きな主題を別として、主に3つの映画的主題を扱っていて、それらは融合せず、互いにある種の緊張関係の中にあるのではないかと思います。1つ目は“青春映画”であるということ、2つ目は“政治映画”であるということ、そして、3つ目は“映画についての映画”であるということ。それら3つのサブテーマについて、どのようにアプローチしたか語って頂けますか?
エドモンド・ヨウ:その通りですね。私にとって、映画は文学に似ています(劇中のフイ・リンとミンがそうだったように、私も本を読む事が大好きなのです)、ですから、ひとつの映画の中に幾つもの異なるレイヤーを創り上げることで、より多くの物事を表現することができる、観客により多くの考えるための題材を提示し、この映画について感じてもらうことができると考えています。

結局のところ、私は常に、私自身の感情と魂を、私の個人的な映画につぎ込んでいます。私は、私の国が於かれている政治的、社会的状況について多くのことを考えてきましたが、同時に、過去に対して極めて感傷的な気分を抱くようになりました(30歳を迎えた私は、以前に比べて、過去について振り返ることがより多くなったのです)。そして、私は、映画を愛しています。ですから、私の映画は、私の政治思想、過去への郷愁、映画への愛を映し出すものになっているのでしょう。

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